朝鮮王朝は国王を頂点とする中央集権国家であり、国王の命令は絶対だった。しかし、行政組織の高官ともなると、国王の判断が間違っていると確信したら命をかけて諫言する伝統があった。
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具体的に、朝鮮王朝の27人の国王の中で、高官から反対意見を出された回数が多い国王をピックアップしてみよう。『朝鮮王朝実録』の記述を読む限り、ひんぱんに高官たちとモメていたのが21代王の英祖(ヨンジョ)だ。
彼は偏屈な性格であり、一度自分で決めたら徹底的にやり抜くタイプだった。それゆえ、高官の意見に耳を貸さず、臣下との対立も辞さなかった。そういう傾向が、「思悼世子(サドセジャ)餓死事件」という悲劇を生んでしまったのである。
名君という評判が高かった22代王の正祖(チョンジョ)も、意外に高官たちとの対立が多かった。頭脳明晰な彼は自分でどんどん政策を決めてしまうので、臣下たちと意見が合わないことが本当に多かったのだ。
以上のように2人の国王を取り上げたが、究極的に高官とモメた人を選べば、それは間違いなく19代王・粛宗(スクチョン)だ。彼は「正室の仁顕(イニョン)王后を廃妃にするとき」「側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)を王妃に昇格させるとき」「張禧嬪を側室に降格させて仁顕王后を王妃に復位させるとき」にことごとく高官から激しく反対されている。
実際、粛宗があまりにわがままで王室の秩序を守らないので、高官たちがやむにやまれず異議をとなえたことが多かった。それなのに、反対意見をすべて無視して粛宗は自分の我を通してしまった。
強硬だったのが、1701年9月25日に「張禧嬪を自決させよ」という王命を発したときだ。理由は、仁顕王后が亡くなる直前に張禧嬪が怪しい者たちと組んで呪いの儀式を続けていたからだ。
確かに、張禧嬪はおかしな儀式をしていたが、それが原因で仁顕王后が亡くなったわけではなかった。もともと仁顕王后は病弱だったのである。
だが、粛宗は張禧嬪を許さなかった。彼女が世子の母であるにもかかわらず、粛宗は「張禧嬪を自決させよ」の一点張りだった。
高官たちは「命令に従えません」と次々に反対した。しかし、粛宗は一歩も引かず、「張禧嬪を生かしておけば、後でさらにひどいことになる。それが恐ろしい」と語って、高官の意見に反論し続けた。
実際に当時の『朝鮮王朝実録』を読むと、粛宗と高官の対立が延々と続く。それでも、粛宗は「他の方法がない」と言い切って張禧嬪を強引に死罪にした。高官たちがどんなに反対しても、粛宗は意見を変えなかった。こういうときの粛宗は本当に頑固だった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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