朝鮮王朝の15代王・光海君(クァンヘグン)は、韓国時代劇によく登場する国王だ。1623年に彼は仁祖(インジョ)によってクーデターを起こされて王宮から追放されている。それゆえ、暴君だったという悪評も多かったのだが、その後の歴史研究で「むしろ政治的には名君だった」という評価に変わってきた。
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ところが、クーデターを起こしたときの仁祖はひたすら光海君を非難したという事実が残る。特に数多くの悪政を指摘されたが、それは果たして理にかなっていたのか。それを検証してみよう。
一つ目。熾烈なる王位継承の渦中にあって、光海君は兄弟たちを殺害したという道義的非難の対象となった。
しかし、この行為は光海君に限ったことではなく、歴史の深淵を探れば、3代王・太宗(テジョン)と7代王・世祖(セジョ)もまた、王位を巡る激しい競争の中で兄弟の命を奪っている。これらの先王たちは罪に問われることがなかった。それゆえ、光海君の行為もやむを得ない側面があったと見るべきだ。
二つ目。光海君の治世下、数多くの土木工事が行なわれ、民衆の負担が増大したという非難が存在する。しかしながら、朝鮮出兵によって荒廃した国土を復興する必要があり、加えて、王宮の損傷も甚大であったため、建て直しが避けられなかった。
三つ目。光海君が恩義のある明に対して背信行為を働いたという重大な非難も浮上している。しかし、これは真実とは異なる。当時、中国大陸では明から後金(後の清)へと勢力が転換しており、光海君が最も恐れたのは後金からの侵攻であった。光海君は朝鮮王朝の存続を願い、外交を駆使した結果、彼の統治時代には後金の攻撃を防ぐことに成功している。
結論として、仁祖がクーデターを正当化するために、光海君を暴君として描き出す試みがあったことは明白である。むしろ、光海君に対する評価は、歴史の中で様々な側面から見直されるべきだ。実際、光海君は税制度を改めて土地を持たない人たちの税負担を軽減させようとした。そういう意味で、政治的には名君だと言えるかもしれない。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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