テレビ東京で放送中のドラマ『イ・サン』では、7月10日に第39話がオンエアされた。ここで注目されたのが思悼世子(サドセジャ)の最後の手紙だった。それをようやく読んだ英祖(ヨンジョ)は、息子の本当の気持ちを知り、ついにイ・サンに譲位することを決意したのであった。
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ドラマ『イ・サン』で再び脚光を浴びた思悼世子。史実における本当の姿を紹介しよう。
思悼世子は1735年に誕生し、その賢明な頭脳で名を馳せた人物である。その卓越した知性ゆえに、幼少の10歳の頃には多くの政策を批判し、当時の主流派閥であった老論派から警戒される存在となってしまった。老論派は、19代王・粛宗(スクチョン)の時代より若き英祖の支持を受けていた派閥であり、彼らを怒らせることは思悼世子にとって避けるべき事態だった。
その後も、思悼世子と老論派の対立が深まる一方となった。この状況下、老論派は思悼世子を牽制し、その素行の至らないところを英祖に強く主張し始めた。結果として、英祖からの叱責を幾度も受けることとなり、思悼世子は次第に性格が偏屈となり、親子間に確執が生じた。さらに、老論派は思悼世子に不利益をもたらす工作を続けた。
その攻撃の中心には思悼世子の身内が存在していた。それは、思悼世子の妻である恵嬪(ヘビン)の叔父である洪麟漢(ホン・イナン)、思悼世子の妹である和緩(ファワン)、英祖の二番目の妻である貞純(チョンスン)王后であった。
なお、思悼世子にも問題があった。過度に妓生(キーセン)と遊び続けた失態が存在していたのだ。これらの行状に怒り心頭に発した英祖は、思悼世子に自ら命を絶つよう命じた。思悼世子は涙を流しながら許しを乞うものの、許されることはなく、遂には英祖により米びつに閉じ込められることとなった。米びつが開かれたのは8日目で、思悼世子はすでに餓死していた。
実際に亡くなってから父親の英祖は後悔し、息子を哀悼した。そして、思悼世子は息子のイ・サンによって名誉を完全に回復されたのである。
文=大地 康
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