傑作時代劇『トンイ』が描く時代背景の前の歴史エピソードである。19代王・粛宗(スクチョン)が最初に結婚したのは仁敬(インギョン)王后だった。この王妃は3人の娘を産んだのちに19歳で亡くなってしまった。1680年のことだった。
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その後、1681年に粛宗が迎えたのが仁顕(イニョン)王后である。彼女は聖女のように性格が良かったが、妊娠する兆候をまったく見せなかった。
当時、粛宗は「絶世の美女」と称された女官に心を奪われるようになった。その相手が張禧嬪(チャン・ヒビン)だ。
彼女は1659年に生まれている。粛宗より2歳上であった。
粛宗の母であった明聖(ミョンソン)王后は息子を溺愛していたが、「母の勘」で張禧嬪の美貌が気に入らなかった。
「あの女は良からぬことを考えているように思える。宮中にこのままいさせてはならぬ」
そう察した明聖王后は、すぐに手を回して張禧嬪を王宮から追い出してしまった。粛宗も国王とはいえ強硬な母の意志に逆らえなかった。
このまま明聖王后が長生きしていれば、張禧嬪は王宮に戻ることはできなかった。しかし、運命は彼女に味方した。なんと、明聖王后は1683年に急死してしまったのだ。まだ41歳だったのだが、孫を見ることもなく世を去った。
粛宗は悲しみに沈んだ。彼は張禧嬪を王宮に呼び戻したいと思っていたが、亡き明聖王后が生存中に命令したことを亡くなった直後に変えるわけにもいかない。そのために、粛宗は張禧嬪を王宮に戻すことをためらっていたら、助け船を出してくれる人がいた。それが仁顕王后だ。
彼女は国王には寵愛する女性が必要だと考え、張禧嬪を王宮に戻すことを粛宗に進言した。彼に異論があるはずがなく、粛宗はすぐに張禧嬪を呼び戻した。こうして2人は再会し、以後はただならぬ関係となっていった。
仁顕王后は本当に人がよすぎた、と言える。彼女は張禧嬪によって大変な被害を受けてしまったのだが、もとはといえば、自らの性格の良さがわざわいを生む結果を招いたのであった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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