【『赤い袖先』の美学】伝説の宮女はなぜイ・サンと一夜を共にすることを拒んだのか

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イ・ジュノとイ・セヨンが主演した『赤い袖先』は、国王と宮女の抒情的な愛の歴史を描いた傑作であった。イ・ジュノが演じたイ・サンは朝鮮王朝後期の名君・正祖(チョンジョ)としてあまりに有名だが、彼が生涯を通して究極的に愛し続けたのが、イ・セヨンが扮した宮女ソン・ドギム(成徳任)であった。彼女は歴史的に宜嬪・成氏(ウィビン・ソンシ)と称されている。

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生まれたのは1753年である。イ・サンは1752年生まれなので彼より1歳下だ。

ソン・ドギムの父親は、洪鳳漢(ホン・ボンハン)のもとで働いていた。ここが重要である。なぜなら、洪鳳漢はイ・サンの父であった思悼世子(サドセジャ)の岳父(妻の父)だからだった。

思悼世子の妻は恵慶宮(ヘギョングン)であり、彼女は父・洪鳳漢の使用人の娘であったソン・ドギムの能力を見込んで自分の手元に置いた、こうしてソン・ドギムは9歳のときに宮女の見習いとなった。

そういう境遇であれば、恵慶宮の息子であったイ・サンとソン・ドギムが会うのは時間の問題である。事実、2人は1762年に初めて会い、お互いに特別な感情を持ったはずである。イ・サンは世孫(セソン/国王の正式な後継者となる孫)になっていたので、身分にしたがって婚礼をすることになった。相手になったのが、後の孝懿(ヒョウィ)王后である。

(画像提供=NBCユニバーサル・エンターテイメント)

承恩を受けなかった理由

彼女はソン・ドギムと同年齢であった。2人は身分こそ違うが、仲が良かった。

しかし、後年になってソン・ドギムが苦慮する出来事が起きた。それは、ソン・ドギムがイ・サンから承恩(宮女が国王や世子・世孫と一夜を共にすること)を求められたのだ。

宮女であれば、絶対に断れない。むしろ、誰もが喜んで受けただろう。しかし、ソン・ドギムは違った。一度だけではなく二度も断ったのである。普通なら処罰されてもおかしくない拒絶だった。

なぜ、ソン・ドギムは承恩を受けなかったのか。それは、子供がいなかった孝懿王后に配慮した結果であった。そこまで王妃の身を案じていたのである。

ソン・ドギムは宮女である前に人間として優しい美学を持っていた。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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