【朝鮮王朝残酷史】世祖は自分を暗殺しようとした「死六臣」にどれほど罵倒されたのか

2023年02月19日 歴史 #康熙奉コラム #写真
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「死六臣」は韓国の歴史において「忠義の家臣」として有名である。彼らはどんな人たちなのか。時代は7代王・世祖(セジョ)が即位した直後のことだ。

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彼は甥の端宗(タンジョン)を脅して1455年に王位を奪った。その翌年、端宗の復位をめざして世祖の暗殺を狙った6人の家臣がまさに「死六臣」である。

計画が失敗してみんな自害・処刑されたが、後世の人たちから志の高さを大いに称賛されている。

「死六臣」の中心人物は成三問(ソン・サムムン)と朴彭年(パク・ペンニョン)である。

2人は史上最高の名君と称される4代王・世宗(セジョン)に可愛がられた高官だ。世宗がハングルを作るときも貢献している。

しかし、2人は非道な形で王位に就いた世祖(世宗の二男)に反発し、正義を貫こうとして暗殺計画を実行して失敗した。しかし、世祖は素晴らしい逸材を殺すのが惜しいと考え、「余を王と認めれば罪を許す」と2人に持ちかけた。いわば、懐柔策を取ろうとしたのだ。

しかし、成三問は監獄に入っても世祖の王位を強く否定した。

『王女の男』ではキム・ヨンチョルが世祖を演じた

現代に残る忠義の心

激怒した世祖が「余が与えた禄(給料)で暮らしていたくせに」と成三問を罵倒したが、彼はきっぱりと否定した。禄にはまったく手をつけていないというわけだ。実際、成三問は貧しい生活をしていたが、世祖から受けた禄を使っていなかった。それが、彼の「けじめ」であった。

成三問は激しい拷問を受けた。それでも意志が強く、焼いた鉄の棒を身体に押しつけられても、「なまぬるい。鉄を焼き直してこい」と強気に叫んだ。

朴彭年も学識がケタ違いで「天才」と称された男だ。彼は世祖から「余に尽くすなら助けてやる」と誘われてもきっぱり断り、反対に世祖のことを何度も「ナウリ」と呼んだ。「ダンナさん」という意味で、国王に対して使えば最高の罵倒だった。

結局、「死六臣」はみんな極刑を受けてバラバラに惨殺された。彼らだけでなく、父と兄弟と息子も処刑され、身内の女性たちは奴婢にされた。それでも、「死六臣」の忠義の心は現代にまでしっかり残っている。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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