英祖(ヨンジョ)は1694年に生まれ、1724年に21代王となった。彼の正室は子供を産まなかったが、側室が1719年に王子を出産した。それが孝章(ヒョジャン)世子である。しかし、わずか9歳で病死してしまった。
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以後、王子は生まれなかった。英祖もかなり焦っていたが、1735年にようやく二男・荘献(チャンホン)が誕生した。
荘献は幼い頃から頭がとても良く、神童とも呼ばれていた。英祖は荘献に期待して、早くから政治を詳しく学ばそうとした。
しかし、荘献は才能がありすぎてむしろ多くの敵を作ってしまった。まだ10歳であったのに彼は政策を厳しく批判したのだ。
当時は、老論派が政治の主導権を握っていた。その老論派は、荘献を危険視するようになった。
そんな動きを英祖はまったく知らなかった。彼は荘献が14歳のときに政治の一部を代行させた。こうして老論派と荘献の不和が決定的になってしまった。
老論派は荘献の評判を悪くするために様々な陰謀を画策した。その一つが、荘献の言動を悪意的に英祖に報告することだった。
最初は信じなかった英祖であったが、老論派があまりにも意図的に荘献の良からぬ噂を広めてくるので、次第に真に受けるようになった。
その後は荘献を必要以上に叱責した。その度に罵声を浴びせられた荘献は徐々に精神が病んでいった。ただし、荘献の行動にも問題があった。彼は酒癖が悪く、臣下に対して暴力をふるうことも多かった。そのことがまた、老論派にとって荘献を攻撃する材料になった。
かくして、英祖と荘献の対立が深刻化していった。さらに、老論派は荘献を陥れるための工作を続けた。
敵だらけの宮中で、荘献の評判は悪くなる一方であった。こうしたことが積み重なっていって、最終的に荘献が英祖によって米びつに閉じ込められて餓死したのだ。
荘献にも非があったが、この事件の本質は、老論派が意図的に政敵を排除したということだ。その最大の犠牲者になったのが荘献であり、彼は後に英祖によって「思悼(サド)世子」という諡(おくりな)を贈られた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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