『ヘチ』に登場する英祖が行なった蕩平策とはどんな政策なのか

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英祖は、19代王・粛宗(スクチョン)と側室の淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)の間に生まれ、朝鮮王朝の21代王として即位した英祖(ヨンジョ)。彼は、朝鮮王朝の27人の王の中で一番長生きした国王として知られている。

その英祖は、在位中に蕩平策(タンピョンチェク)という政策を行なっているのだが、これはいったいどんな政策なのだろうか。きっかけとなったのは、2つの派閥の覇権争いである。

【朝鮮王朝の闇】果たして英祖は兄の景宗を毒殺したのか

朝鮮王朝の19代王・粛宗(スクチョン)が1720年に世を去り、後を継いで20代王として即位したのは、「朝鮮王朝三大悪女」の1人である張禧嬪(チャン・ヒビン)との間に生まれた景宗(キョンジョン)だ。

景宗は名君になれる素質のある王だったのだが、病弱で身体が弱かった。そこの老論派(ノロンパ)という派閥が目をつけたことで、ある派閥争いが起きている。

その派閥争いで老論派と争った派閥が少論派(ソロンパ)である。

老論派と少論派の2つの派閥は、もともと西人派という1つの派閥だったのだが、実権を握った際に内部で対立を起こして派閥が分裂したのだ。

韓国の御真博物館に所蔵されている英祖の肖像画

英祖の功績とは?

一方の小論派は景宗を支持し、もう一方の老論派は粛宗と叔嬪・崔氏の間に生まれた延礽君(ヨニングン)を支持した。

この延礽君とは、英祖が王になる前に呼ばれていた名前である。

どちらの派閥もあらゆる方法で相手の派閥を没落させようとするが、その争いのせいで官僚が何人も処罰されてしまい、政治はただ混乱するばかりだった。

そんな争いを制して政権を掌握したのは景宗を支持していた少論派である。しかし、身体の弱かった景宗が在位わずか4年2カ月で亡くなってしまったため、そこで少論派の天下は終わりを迎えてしまった。

その景宗の後を継いで延礽君が英祖として即位したことによって、先の派閥争いで追放された老論派が息を吹き返した。
王になった英祖は、「派閥争いが繰り返されれば再び怨讐が生まれるだけだ」と考えていた。そこで彼が採用した政策が蕩平策だ。

この政策は各派閥から公平に有能な人材を採用するもので、それによって激しく行なわれていた党争が静まったのである。

その後も、英祖は国防の強化や苛酷な刑罰の禁止や減税や庶民の官吏登用試験などで成果を上げたが、自分の息子である思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めて餓死させるという事件を起こしている。

そんな英祖の若き日を描いた時代劇『ヘチ 王座への道』が2月14日から放送される。主演を務める俳優チョン・イルの演技が本当に楽しみだ。

文=大地 康

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