朝鮮王朝の第21代王・英祖(ヨンジョ)が世孫(セソン/王の後継者となる孫)に代理聴政(摂政)をさせると言いだしたのは1775年11月20日だった。
【関連】『赤い袖先』でも厳格な王・英祖の人生はどんなものだったのか
このときの英祖は81歳。彼の他に王が80歳を越えたという例はなかった。歴代王の中でも最高齢に達した英祖は、心身ともに限界に近かった。それゆえ、彼は急ぐ必要があった。
「まだ若すぎる世孫であるが、余は世孫にも政治のことをわからせてあげたい」
高官たちにこう言った後、英祖は世孫に代理聴政をさせたいという意思を明確にして臣下たちに意見を求めた。左議政(チャイジョン/副総理に該当する)の洪麟漢(ホン・イナン)が英祖の意見に反対を唱えた。
「世孫は政治のことや朝廷のことも知る必要がありません」
その場には世孫もいた。その目の前で、洪麟漢は「世孫は王の後継者ではない」と言い切ったのだ。この洪麟漢は世孫の大叔父に当たる親族なのだが、なんと世孫を無能呼ばわりしたも同然だった。
朝鮮王朝では、王が亡くなったときに代理聴政をしていた者がそのまま即位することになっていた。しかし、世孫が代理聴政をしていない場合は別だった。確かに世孫は王の後継者になれる立場ではあるが、年長者である王族女性が世孫を廃することも可能だった。
当時の最大派閥の老論派は世孫に対する批判勢力であり、彼らは代理聴政をなんとしてでも阻むつもりだった。
英祖は高官たちが世孫の代理聴政に反対したことを重く受け止めたが、熟慮したうえで、世孫を呼んでこう言った。
「最近の言動を見ていると高官たちを信じることができない。余はすべてのことをお前だけに伝えたい」
この言葉をもって世孫の代理聴政が決定した。このことを正式な手続きにするために、英祖は1775年11月30日に高官たちと世孫を集めた。
予想どおり高官たちは反対したが英祖は強引に世孫の代理聴政を決定した。これは本当に大きかった。1776年3月5日に英祖は82歳で世を去ったが、世孫はそのまま後を継いで22代王・正祖(チョンジョ)として即位した。彼は名君となり、数々の善政を行なって民衆の生活向上を実現させた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【関連】『ヘチ』は事実? 英祖は「民衆のための政治」を行なったのか
前へ
次へ