朝鮮王朝の王族女性は、王宮に住んで本来は慎(つつ)ましく生きていたのだが、中には派手な言動で物議をかもす人もいた。特に気の強さで世に知られたのが、廃妃・尹(ユン)氏、明聖(ミョンソン)王后、恵慶宮(ヘギョングン)であった。
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彼女たちは何をやらかして「鬼嫁」と呼ばれたのか。その人物像を見てみよう。
9代王・成宗(ソンジョン)の正妻であったが、王妃として前代未聞の不祥事を二度も起こしている。一度目は、成宗が一番気に入っていた側室に嫉妬して彼女を呪い殺す儀式を画策した。事前に発覚して廃妃を免れたが、二度目は許されなかった。
なぜなら、恐れ多くも成宗の顔を激しくひっかいてしまったからだ。精神が錯乱したようだが、あまりにひどい鬼嫁だった。結局、1479年に廃妃となり、さらに1482年に死罪となった。息子は暴君の燕山君(ヨンサングン)。母子ともに評判が最悪だった。
18代王・顕宗(ヒョンジョン)の正妻。とても勝ち気な性格で、夫に対しても言いたい放題だった。顕宗は妻の嫉妬を恐れて、側室を持たなかったという。そんな恐妻家の国王は他にいなかった。明聖王后は完全に国王を尻に敷いていたのだ。
顕宗が亡くなったあと、息子が19代王・粛宗(スクチョン)になったが、明聖王后は国王と高官が開いた公式会議にも勝手に出てきてしまった。
気ままな発言もして高官から顰蹙(ひんしゅく)を買っている。とはいえ、子供への愛情は誰にも負けなかった。粛宗が原因不明の病にかかったとき、助けたい一心で真冬に水浴びの苦行を続け、結局は亡くなってしまった。
21代王・英祖(ヨンジョ)の息子だった思悼(サド)世子の正妻だった。結婚当初は夫婦仲が良かったが、夫の素行が悪くて、後に関係が悪化した。夫婦はケンカばかりしていたという。思悼世子が英祖に叱責されて米びつに閉じ込められたとき、恵慶宮はあえて助命嘆願をしなかった。自分の実家は命がけで守ったが、夫には本当に冷たかった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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