日本や韓国の戦場跡を訪ねて感じることは、そのほとんどが風光明媚であることだ。山、川、海などは天然の要塞であり、戦闘に好都合だからだ。
多富洞(タブドン)もまた、山に囲まれた小さく穏やかな盆地である。特に西側になだらかな稜線が連なる遊鶴山(ユハクサン)は今日、地元の人に人気のハイキングコースになっているが、朝鮮戦争当時、戦略的に非常に重要であり、激しい戦闘が行われた。
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考えてみれば、伽耶(カヤ)に属していた倭館の地は、古代から戦略的要衝の地であった。伽耶は、釜山(プサン)から西に延びる海岸線を底辺とするほぼ三角形であり、その両側に新羅(シルラ)と百済(ペクチェ)が対峙していた。三角形の頂点に近づくほど、新羅と百済の距離は近くなるが、倭館はまさにそうした地域であった。
伽耶の戦闘では北部九州など、日本からも兵が加わっているとされる。朝鮮戦争の多富洞の戦闘では、米軍の爆撃機が人民軍を攻撃した。そうした飛行機の多くは、福岡の板付飛行場から飛び立ったものだった。これも歴史の因縁というべきか。
朝鮮戦争では、夜は照明弾に照らされ、戦闘は約2カ月、休むことなく続いた。一時は、人民軍の砲弾が大邱市内に飛来し、大邱がパニックに陥ったこともあった。
それでも持ちこたえているうちに、9月15日に仁川(インチョン)上陸作戦に成功し、形勢は逆転する。
もし洛東江防御線が崩壊していたら、仁川上陸作戦での形勢逆転はなかった。それだけに、大邱地域の人たちは、国を守ったというプライドが高く、韓国軍内でも力を持つことになる。
なお、激しい戦闘が繰り広げられた多富洞には、多富洞戦績記念館があり、当時の兵器や、戦闘の模様を写した写真などの資料が展示されている。
また、2010年に韓国で、翌年には日本でも上映された『戦火の中へ』という映画は、軍令部のあった浦項女子中学に取り残された71人の学徒兵と、北朝鮮の人民軍との激しい戦闘を描いた作品である。
浦項女子中学に学徒兵だけが取り残されたのは、主力部隊を多富洞の戦闘に割かなければならなかったからだ。学徒兵だけが守る浦項女子中学に、人民軍部隊が攻撃し、47人の学徒兵が若い命を落とした。
多富洞から少し行くと洛東江が見えてくる。伽耶の文化を育んだこの川を挟んで、西側に人民軍が、東側に米軍が陣取り、決死の攻防が繰り広げられた。
その模様は、川沿いにある倭館地区戦績記念館に展示されているが、洛東江は、そうした歴史も押し流すかのように、滔々と流れている。
文=大島 裕史
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