ソウルから韓国第2の都市・釜山(プサン)までは、高速鉄道KTXが開通する前は、瀬マウル号に乗って約4時間半。今日では約2時間半で着く。KTXの開通によって、首都ソウルとの距離は、随分近くなった。
けれども釜山には、ソウルとは明らかに違う空気が流れている。
一つには港町ということだろうが、それだけではない。
釜山は日本から最も近い外国の都市であり、古代、中世、近世、近代と、良きにつけ悪しきにつけ、日本と深い関わりを持ってきた。それは中国の影響を強く受けているソウルと、最も異なる点である。
駅前の大通りを渡ると、ロシア語の看板が目につく。ここはかつてテキサスタウンと呼ばれ、軍人を中心に、アメリカ人が多い街だった。
しかしベトナム戦争が終わり、冷戦時代が幕を下ろすと、アメリカ人は次第に姿を消し、代わりに1990年に国交を結んだロシアの人たちが増えてきた。そして瞬く間に、ロシア人街に様変わりしたのであった。
ロシア人街の南側には中国料理店が並び、ちょっとした中華街を形成している。その中華街を出て、再び大通りを渡って南に行くと、左手に、国際旅客船ターミナルが見えてくる。ここから、下関、福岡をはじめ、日本各地を結ぶフェリーが発着している。
日本が朝鮮支配を本格化した1905年、関釜連絡船として、日韓の定期航路が開かれた。その5年後、日本は朝鮮を植民地化した。
植民地時代、この航路は日本の大陸侵略、進出の窓口になった一方で、多くの朝鮮人がこの航路を通って、炭鉱などの労働に駆り出された。
彼らは、いかなる思いでこの港を見たのだろうか。日本が戦争に敗れ、朝鮮は植民地支配から解放されるとこの港は、日本に向かう引き揚げ船と、日本からの帰国船の発着地になった。解放後は、日韓の国交が正常化して5年後の1970年、関釜フェリーの就航が始まった。
日本の流行がいち早く入ってくるのも釜山である。
今や韓国ですっかり定着したカラオケも、1980年代に釜山から入ってきた。最近は街の美観を重視するため、看板もおとなしくなったが、つい最近まで国際旅客ターミナルに近い南浦洞(ナムポドン)や光復洞(クァンボクドン)一帯には、巨大なマイクを模った看板が目に付いた。
韓国ではカラオケのことを「ノレバン」と言うが、こうした店は、「カラオケ」と言った方が相応しい。私が見た範囲ではプリクラの流行も、ソウルより釜山の方が早かった。
日本と空路で結ばれているソウルは、点と点のつながりであるのに対し、海路で結ばれている釜山とは、線の結び付きといった感じがする。
そうした近さゆえだろう、1993年~1994年にソウルに留学していた私は、釜山に来ると日本への望郷の念を感じた。
文・写真=大島 裕史
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