益山(イクサン)を中心とした湖南(ホナム)平野は、韓国を代表する穀倉地帯でもある。益山に向かう途中のKTXの車窓にも、青々とした田園風景が広がっていた。
日本の植民地時代、湖南平野で収穫された米は、西側の港町・群山(クンサン)から日本へと積み出されていた。
韓国の人から見れば、それは「食糧収奪」であった。そうしたこともあり、植民地時代、群山には約1万人の日本人が暮らしていたという。そして群山には今日でも、日本人が建てた住居や建築物が数多く残っている。
私は今まで、韓国の大半の都市には行ったが、群山はまだ行ったことがなかった。
益山から群山までは鉄道で約20分。この機会に足を伸ばすことにした。群山は、百済(ペクチェ)の母なる河・錦江(クムガン)の河口の南側で、黄海の入り口に当たる港湾都市だ。
群山の港に向かっていると、今にも崩れそうな洋風の建物を見つけた。これは日本の国策銀行であった朝鮮銀行の支店であった。
この建物がある地名は「チャンミドン」。韓国で「チャンミ」と言えば普通「薔薇」を指す。何とも優雅な地名と思ったら、大違いであった。
この地域の漢字名は「蔵米洞(チャンミドン)」。日本に積み出すための米蔵があったところで、「食糧収奪」を象徴する地名であった。
それにしても、今にも壊れそうなこの建物。10数年前に火災に遭ってから、使われていないという。建物の片方にはナイトクラブの、もう片方にはロックカフェの看板がある。
ロックカフェとは、ディスコとカフェをミックスしたような店で、1990年代の初め、若者に人気のあったスポットだ。1923年に建てられた旧朝鮮銀行の建物は、90年近く前の時間を止めているだけでなく、10数年前の時間も止めているようだ。
旧朝鮮銀行の建物からそう遠くない所に東国寺(トングッサ)という、日本式の寺院がある。レンガ風の塀、えび茶色に舗装された入口の道、ハングルで書かれた表札などは、いかにも韓国の寺院だ。
しかし、その向こうに見える鐘楼を見て驚いた。黒瓦の屋根、着色されず、木目そのままの柱、鐘の形、全てが日本式だ。そして本堂もまた黒い瓦に白い壁と、全く日本式だ。
このお寺、元は曹洞宗の僧侶・内田仏観が1913年に建てた錦江禅寺という寺院であった。解放後は韓国政府に移管されたが、1955年に仏教全北教団に渡り、東国寺となった。
韓国で日本の寺院が、ここまで完全に保存されているのは、東国寺だけだという。
文・写真=大島 裕史
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