全州(チョンジュ)が朝鮮王族の発祥の地であることを象徴するのが、李成桂(イ・ソンゲ)の肖像を奉安している慶基殿(キョンギジョン)である。
慶基殿は梧木台のすぐ下、豊南門の東側にある。
慶基殿が建てられたのは、李成桂が亡くなって2年後の1410)年のことで、第3代国王・太宗(テジョン)=李芳遠(イ・バンウォン)の時代である。
朝鮮王朝を樹立し、初代国王・太祖(テジョ)と呼ばれる李成桂であるが、晩年は失意の連続であった。後継を巡り先妻派と後妻派が激しく対立した。
彼は後妻の子の李芳碩(イ・バンソク)を推していたが、先妻の5男・李芳遠は、異母弟2人に加え、李芳碩を支持する李成桂のブレーン・鄭道伝(チョン・ドジュン)も殺害し、権力を握った。
父親の意に背き実権を握った李芳遠は、一旦李成桂の2男・李芳果(イ・バングァ)=定宗(チョンジョン)を王位に就かせたが、2年後に自らが王になった。
しかし当時の朝鮮王朝は、明との緊張関係、依然として続く倭寇の襲撃、さらに高麗王朝復活を願う勢力の存在、後継者争いによる深い後遺症など、内外に問題が山積していた。
一族の結束が何よりも必要だった時代、精神的な支柱となるのは、朝鮮王朝を築いた李成桂ではなかったのか。慶基殿には、李芳遠のそんな思いが感じ取れる。
慶基殿の敷地は、ゆったりとした時間が流れる全州でも、とりわけゆったりとした時間が流れている。のどかに腰掛ける老人の姿や、広場を駆け回る幼稚園児たちの歓声などに、生活の中にある史跡であることを実感する。
ただし、敷地の中央の回廊の中にある、李成桂の肖像を奉安した建物の周りは別格である。回廊の門をくぐり、建物の前でカメラを構えると、係員が飛んできて、「ここは撮影禁止です」と、強く制した。「どこからが禁止なのか」と聞くと、門を指して、「あそこから」と言う。すなわち、回廊の中は聖域というわけだ。
李成桂の肖像は、過去幾多の危機に遭いながらも、大事に守られてきた。
16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮出兵や17世紀前半の清の侵攻に際しては、周辺の山野を転々とし、1894年にこの地域を中心に起きた東学農民戦争でも、避難を余儀なくされた。それだけ、李成桂の肖像は、朝鮮王朝を象徴する存在であったわけだ。
慶基殿に来たら、豊南門の西側にある南部市場にも足を伸ばしたい。ここにはファンポムクの材料になる黄色く色づいた緑豆をたたえたモヤシや、周辺の山で採れた山菜など、食都・全州を支える食材で溢れている。
南部市場の横には全州川が流れ、川に沿って柳並木が続いている。まさに歴史の街にふさわしい趣がある。
全州は韓国の伝統芸能・パンソリの本場でもある。韓国では風流や粋のことを「モッ」という。また、味のことは「マッ」という。「モッ」と「マッ」。この街を特徴づける二つの言葉は、朝鮮王朝の伝統にも根差している。
文・写真=大島 裕史
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