【深発見39】朝鮮王朝の始祖が全州出身となる面白エピソード

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高麗(コリョ)が後三国時代を統一した後、朝鮮王朝を樹立する李成桂(イ・ソンゲ)の先祖は、後百済の古都・全州(チョンジュ)の豪族として力を付けていく。

しかし李成桂自身は、中朝国境に近い咸鏡道(ハムギョンド)で生まれている。その背景には、面白いエピソードがある。

李成桂の4代前の先祖に、李安社(イ・アンサ)という人物がいた。

ある時、今の知事に相当する地方の役人が新たに全州に赴任し、豪族たちを集めて歓迎の宴が行われた。その役人は、李安社がひいきにしていた妓生(キーセン)がいたく気に入って、「差し出せ」と迫った。

【サク読み韓国史】建国と後継者争いが続いた朝鮮王朝の前期

ところが李安社は「とんでもない」と拒否し、大喧嘩をしたため、李安社は全州を出ていかざるをえなくなった。

よほど惚れていたのだろう。李安社は、自分の立場を危うくしてまでその妓生を死守しようとしたのである。思いの強さが伝わる話である。

李安社は江原道(カンウォンド)の三陟(サムチョク)で暮らすようになった。三陟で安社の父親(李成桂の5代前)が亡くなる。

安社は墓地の適地を探していると、「この地を墓地にすれば、5代後に王が出る」という夢を見たと伝えられている。その地は濬慶墓(チュンギョンミョ)という聖域として、今日でも大事にされている。

2008年、ソウルの南大門が放火によって焼失すると、その復元工事のために、濬慶墓周辺の松が伐採された。南大門の復元に使うには、相応の大きさが必要であり、大切に保存されていた濬慶墓の松が使われた。

ただ李安社は不運が続いた。彼と喧嘩した役人が今度は三陟に赴任してきたのだった。安社は家族を連れて避難し、結局中朝国境付近に定着することになったのだった。

このような事情があって咸鏡道で生まれた李成桂は、高麗王朝の武人として功績を挙げ、出世していった。

この当時の高麗王朝は、日本を中心とした海賊的集団・倭寇の出没に頭を痛めていたが、1380年、李成桂は朝鮮半島南西部に現れた倭寇を打ち負かした。引き揚げる際に李成桂は全州に寄り、先祖の家があった場所で戦勝の宴を開いた。そこは、豊南門の東側の小高い丘の上にあり、梧木台(オモクテ)と呼ばれている。

梧木台で祝杯を挙げながら、李成桂は高麗王朝を転覆させ、自分が王になるという意味の詩を詠んでいる。

李成桂が梧木台で祝杯を挙げた頃、眼下の景色はのどかな農村の風景であったに違いない。

今日ではまさに「甍(いらか)の波」といった感じで、黒瓦の家が軒を連ねる。梧木台の下は、韓国の伝統家屋・韓屋(ハノク)が最もよく保存されている地域の一つである。

李成桂の肖像画(写真=御真博物館)

李成桂の詩は、1388年に実行に移される。当時中国は元から明への移行期であったが、高麗王朝は元の残党勢力の要請を受け、明の討伐を李成桂に命じた。

明討伐に向かった李成桂は途中で引き返し、実権を握る。そして、1392年に朝鮮王朝が樹立された。それと同時に、李成桂は全州を本貫の地と定めた。

文・写真=大島 裕史

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