【サク読み韓国史】建国と後継者争いが続いた朝鮮王朝の前期

2020年05月12日 歴史
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朝鮮王朝を建国したのは、高麗(コリョ)の武将・李成桂(イ・ソンゲ)だ。彼はクーデターで実権を握ると、1392年に朝鮮王朝を建国した。その後は儒教を奨励するなど国家理念を定め、国家基盤を築いている。

武力で国家を築いた李成桂だったが、老齢になると王位継承を巡る息子たちの後継者争いに悩まされた。

李成桂の5男・李芳遠(イ・バンウォン)が王位後継者に指名されていた異母兄弟を殺害するなど、その争いは熾烈を極めており、結局、李成桂は次男・李芳果(イ・バンファ)に譲位している。

しかし第2代王・定宗(チョンジョン)として即位した李芳果は、わずか2年余りで李芳遠に王位を譲った。こうして李芳遠は、第3代王・太宗(テジョン)として即位したのだった。

王となった太宗は独裁的に、国政を動かした。まず私兵を廃止して、誰も王位を脅かすことができなくすると、土地や課税制度の整備を通じて国家の財政を安定させた。

建国後に待ち受けた後継者争いの時代を生きた王の生き様

そんな強力な王権を引き継いだからこそ、第4代王・世宗(セジョン)が国を飛躍的に発展させることができたといえるだろう。

世宗は現在のハングルである「訓民正音」を創製しただけでなく、刑法や交通などの国家制度も新しく整備。この時期、朝鮮王朝は著しく発展したと言えるだろう。

世宗の後を継いだ第5代王・文宗(ムンジョン)は、世子(セジャ)(王位継承者)時代から世宗をサポートしていたが、即位から2年余りで病死。続いて11歳で即位した端宗(タンジョン)は、実権も後ろ盾もなかった。

そんな不安定な王権を狙っていたのが第7代王・世祖(セジョ)だ。強引に甥の端宗を追い出し、自らが王となっている。

世界遺産にも登録されている宗廟には歴代王の位牌が祭られている(写真=韓国観光公社)

第8代王・睿宗(イェジョン)の時代には、朝鮮王朝初の試みとなる母親の代理政治が行なれた。そして第9代王・成宗(ソンジョン)の治世には、勲旧派(フングパ)と士林派(サリムパ)による党派争いが勃発している。

第10代王は燕山君(ヨンサングン)だ。歴史に残る暴君で、“朝鮮3大悪女”の一人である張緑水(チャン・ノクス)とともに、暴政の限りを尽くした。燕山君は朝鮮王朝初となるクーデターによって失脚している。

朝鮮王朝前期の王は、著名かつ個性的な王が揃っている。朝鮮王朝は建国初期の混迷期からが、徐々に安定期へと入っていく。

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