朝鮮王朝の側室は、正式に言うと、「後宮」と呼ばれていた。確かに、広い王宮の中でも、側室は後ろのほうで居住していた。王妃が王宮の真ん中あたりに住み、別名で「中宮」と称されていたのとは対照的な呼び名だった。
しかし、側室は王妃以上に国王から寵愛される割合が高かった。なにしろ、王妃は名門の出身で政略的に選ばれるのに対して、側室はあくまでも国王の好みで選択される場合が多かったからだ。
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朝鮮王朝は1392年から1910年まで518年間も続いたが、前期と後期とでは、国王が抱える側室の数が随分と違った。
前期なら、国王が抱える側室は平均的に10人くらいだった。
たとえば、3代王の太宗(テジョン)は、朝鮮王朝の基盤を作った大王であったが、正室の元敬(ウォンギョン)王后が息子4人と娘4人をもうけているのに対し、子供を産んだ側室だけで9人もいて合わせて息子8人と娘13人を産んでいる。
それ以外にも、子供を産んでいない側室が数人いたという。これほど多くの側室を太宗は抱えていたのである。まさにこの大王は「英雄、色を好む」の典型だったと言える。
このように、朝鮮王朝の前期には太宗のように側室をたくさん持った国王が多かったのに、後期の16代王・仁祖(インジョ)あたりからは、側室の数が激減していく。
これは、儒教的な倫理観が強くなってきたことが大いに関係している。
「国王といえども、側室が多すぎるのか、いかがなものでしょうか」
このように国王に意見する儒教の研究家がとても多くなり、国王もその意見に従うようになったのだ。
こうして、後期では国王が抱える側室が3人くらいになってしまった。
必然的に、側室が国王の子供を産む割合も減ってきてしまって、太宗のように30人近くの子供を持つ国王は皆無となった。
むしろ、子供がいないという国王が後期には目立つようになり、それが王位継承問題が複雑になるきっかけにもなっていた。
すべては時代の流れとはいえ、後期の国王が前期の国王を羨ましく思うことも少しはあったかもしれない。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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