テレビ東京の韓流プレミアで放送されてきた『ホジュン~伝説の心医~』では、主人公ホ・ジュン(演者キム・ジュヒョク)の人生が詳細に描かれていた。創作部分が多かったとはいえ、正確な歴史もよく取り入れられていた。史実での許浚(ホ・ジュン/1546~1615年)は、どんな人生を歩んだのだろうか。
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許浚は、1546年、由緒ある名家で生まれた。だが、その出自は庶子であり、当時の厳格な身分制度によって高い官職に就く道は閉ざされていた。しかし、名医のもとで修業し、医学の基礎を学んだ。
29歳のとき、科挙の医科に合格し、宮廷医としての歩みを始める。やがて宣祖(ソンジョ)の主治医として仕えることになったが、栄光に溺れることなく、誠実に医術を求め続けた。
1592年、豊臣軍が攻めてきたとき、許浚は王とともに各地を転々とし、民の悲惨な現実に直面する。飢えと病に苦しむ人々の姿は、彼の心を強く揺さぶった。ちょうどその折、宣祖から1つの言葉を授かる。
「中国から多くの医学書が入ってきている。しかし、我が民族の医学書は少ない。お前が書いてみたらどうか」
この一言が、後に“東医宝鑑”へとつながる灯火となる。許浚は王の信任を背に、診療と並行しながら膨大な資料を収集し、筆を執った。やがて、その業績が認められ、次々と高位の官職を授かることになる。しかし、名声は同時に妬みを呼び寄せる。
1608年、宣祖の崩御とともに、彼に不当な非難が浴びせられた。死罪こそ免れたものの、遠い地への流刑となってしまった。
だが、運命は再び微笑む。15代王・光海君(クァンヘグン)は、若き日より許浚の才を間近で見ており、その人柄と偉業を深く敬っていた。彼は許浚を再び宮廷に呼び戻し、主治医として迎え入れる。許浚はこの恩に報いるように研究と執筆にふたたび心血を注ぎ、ついに1610年、“東医宝鑑”を完成させた。
“東医”とは、“中国の漢方”に対して、朝鮮半島固有の医学を指す言葉である。その名の通り、“東医宝鑑”は朝鮮王朝医学の英知と経験を結晶させた壮大な書物であった。光海君はこれを非常に喜び、1613年には活字本として全国の医療機関に配布された。
晩年においても、許浚の筆は衰えることなく、疫病の流行に際して最善の医書を次々と著し、民を救う光となり続けた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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