韓国で2009年に放送されて大人気になったのが時代劇の『千秋太后(チョンチュテフ)』である。時代劇に定評があるチェ・シラが主演して、彼女の勇ましい女傑ぶりが大評判になった。
このドラマの主人公になった千秋太后は、歴史的にどういう女性だったのだろうか。
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彼女は高麗王朝の初代王・王建(ワン・ゴン)の孫である。
943年に王建が亡くなったあと、高麗王朝は内政面が混乱したが、10世紀の末になると国内が安定を取り戻していた。そして、997年に千秋太后の息子が7代王・穆宗(モクチョン)として即位した。
穆宗が即位したときは17歳だった。千秋太后は王の母として背後で影響力を行使し、さらには、自ら強力な指導力を発揮した。ちなみに、千秋太后は王宮の中で「千秋宮」に住んでいたことからその尊称で呼ばれた。
特に千秋太后が力を入れたのが北方の防衛だった。当時、契丹が勢力を強めて高麗王朝の領土を奪う動きを見せており、千秋太后は北の国境沿いに多くの城塞を築いた。この功績は大きかった。
ただし、千秋太后の悪行の一つとされたのが、穆宗の後継者をめぐる暗躍だった。彼女は自分の愛人だった金致陽(キム・チヤン)と一緒に政治を仕切っていたが、我が子の穆宗に息子がいなかったために、いつも後継者問題で頭を痛めていた。
その挙句に、金致陽との間に生まれた息子を次代の王に即位させようと考えた。これは、あまりに無謀なことだった。しかし、千秋太后は無理を承知で他の有力な後継者候補の命を狙おうとした。この陰謀は多くの怨みを買った。結局、たくらみが発覚して、千秋太后に対する不満が宮廷内でも大きくなっていった。そして、最後はすべての権力を失って没落し、1029年に65歳で亡くなった。
千秋太后は権力欲が強い悪女として後世に伝えられた。しかし、強い高麗を築いて外敵から守った女傑としても名を残している。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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