「チャングムは2人いた?」という歴史の謎に迫ってみる!

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韓国時代劇の『宮廷女官 チャングムの誓い』があまりに有名になったおかげで、朝鮮王朝時代の医女だったチャングム(長今)もまた、よく知られる歴史上の人物になった。

しかし、歴史資料を見て行くと、朝鮮王朝の正史である「朝鮮王朝実録」に出てくるチャングムの記述は10カ所しかない。その中では、チャングムがどんな女性だったのかを説明している文章はない。結局は、彼女の人間性については、今もまったくわからないままなのだ。

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しかし、気になるのが「朝鮮王朝実録」の1515年3月22日の記述だ。そこには、「医女である長今の罪は大きい。産後に王妃の衣装を替えるべきなのに、それをしないでおくとはどういうことなのか」と書かれてある。

ここで「王妃」と名指しされたのは、11代王・中宗(チュンジョン)の二番目の正室だった章敬(チャンギョン)王后だ。彼女は中宗の長男を出産した直後に急死している。その時、チャングムは過失があって罪を問われているのだ。

当時、王や王妃が亡くなると、たとえ主治医にミスがなくとも罪人にされた。そうなると、チャングムも罪を問われて何らかの処罰を受けた可能性が高い。そんな彼女が、引き続き王族の診察を担当できたのだろうか。

写真=『宮廷女官 チャングムの誓い』公式サイトより

チャングムは本当に1人だったのか?

それなのに、「朝鮮王朝実録」によると、その後もチャングムは医女として王族の診察をしていて、たくさんの褒美を得ている。このあたりの事情が謎めいている。

チャングムの名前が「朝鮮王朝実録」で最後に出てくるのは、1544年10月29日である。それは、チャングムの名前が初めて「朝鮮王朝実録」に出てから29年目のことだった。

平均寿命が短かった時代なのに、チャングムはあまりに長く医女であり続けている。とにかく、職務期間が長すぎるのだ。

よって、こんな推察もありそうだ。チャングムというのは当時の医女の役職名であって複数の人物が存在して肩書を継承したのではないか、と。

果たして、チャングムは1人だったのか。あるいは、2人いたのか。真相はわからないのだが、複数説も可能性がまったくないわけではなさそうだ。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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