『雲が描いた月明り』の主人公であるイ・ヨンこと孝明世子(ヒョミョンセジャ)。彼の父親は23代王の純祖(スンジョ)である。その純祖はいったいどんな王だったのだろうか。
1800年に正祖(チョンジョ)が48歳で亡くなった後、彼の10歳の息子が23代王として即位した。
それが純祖(スンジョ)である。
正祖は名君としてあまりに有名だった。その素質を受け継いでいるので、純祖も最高権力者として大いに期待された。
しかし、即位当時は未成年だったので、王族の最長老女性であった貞純(チョンスン)王后が代理で政治を取り仕切った。
この貞純王后は21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正妻であった。
貞純王后は自分の側近たちで要職を独占し、正祖が進めた改革をことごとくつぶしてしまった。
しかも、自分の敵対勢力に天主教(カトリック)の信者が多いという理由で、天主教徒の大虐殺を行なった。
まさに悪の女帝であった。
貞純王后が1805年に世を去り、15歳になった純祖はようやく親政を開始したのだが、王として不甲斐ない立場にならざるをえなかった。正妻の純元(スヌォン)王后の実家である安東(アンドン)・金氏の一族によって、政治の主導権を取られてしまったからである。
純元王后の父は金祖淳(キム・ジョスン)。野心家の彼は国王の岳父としての立場を利用して、次々に一族の者たちを要職につけていった。
このように、国王の外戚が権力を持つことを「勢道(セド)政治」と呼ぶが、朝鮮王朝で一番この政治を行なったのが安東・金氏であった。
純祖は歯がゆくて仕方がなかった。しかし、彼は自ら主導権を奪うほどの強い意志を持っていなかった。
それでも、まったく無策だったわけではない。純祖は安東・金氏の横暴を抑えるために、10歳の長男であった孝明(ヒョミョン)世子の妻に豊壌(プンヤン)・趙(チョ)氏の娘を迎えた。
「孝明世子の妻の実家である豊壌・趙氏の一族を重用して安東・金氏に対抗させよう」
それが純祖の腹積もりであった。
実際に、純祖の思いどおりに政治は動いていった。
頼もしい孝明世子の成長にしたがって、豊壌・趙氏の勢力が安東・金氏を上回るようになったのだ。
「余もこれで王としての力を発揮できる」
純祖は自信を深めたのだが、思わぬ悲劇が彼を襲った。最愛の孝明世子が1830年にわずか21歳で亡くなったのだ。
絶望の淵に立たされた純祖。後ろ楯を失った豊壌・趙氏も勢力が弱まってしまい、安東・金氏が完全に復活した。
悲しみに暮れた純祖は失意の中で1834年に44歳で世を去った。
王として即位してから亡くなるまで、つねに誰かに権力を握られて自分の思い通りの政治ができなかった純祖。名君と呼ばれた正祖の後をしっかりと継げなかったことはさぞかし無念だったことだろう。
文=大地 康
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