テレビ東京の韓流プレミアで放送されている『ホジュン~伝説の心医~』では、第38話になって14代王・宣祖(ソンジョ)が登場してきた。史実を通して、この国王が即位した背景について解説していこう。
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1567年に13代王・明宗(ミョンジョン)が亡くなったとき、正式な後継者がいなかった。明宗には1人息子がいたのだが、 1563年に12歳で早世していた。この段階で正室が産んだ王子が皆無だったのである。
必然的に、側室が産んだ王子の中から後継者を選ぶしかなかった。その中で候補になったのが、11代王・中宗(チュンジョン)の九男・徳興君(トグングン/側室の安〔アン〕氏が産んだ王子)の三男・河城君(ハソングン)である。彼は聡明だったので、15歳で宣祖として即位した。
宣祖は朝鮮王朝で最初の庶子(しょし)出身の国王だ。その前には側室から生まれた国王はいなかった。その頃の社会には厳格な身分制度があり、庶子には出世の望みがなかったのに、王家のトップが庶子になれば、大きな矛盾になってしまう。それほど、宣祖は危うい国王であった。
即位した時に宣祖は未成年だったので、明宗の正室の仁順(インスン)王后が摂政をしたが、自ら政治を司る能力が高いということで、宣祖は16歳から率先して政治を仕切っていった。
彼には、「朝鮮王朝が建国してから自分が最初の庶子出身の国王」という負い目があったので、なおさら儒教的な価値観に基づく王道政治に固執するようになった。それゆえ、儒教の倫理に忠実な官僚を重用したが、そうした官僚は理屈っぽいうえに議論で相手を論破するタイプがとても多かった。
そうなると、儒教的な価値観に関する論争がどんどん過激になっていき、結局は東人派、西人派という二大派閥に分裂してしまった。以後、「朝鮮王朝の病巣」とまで言われた「党争」は、宣祖の統治時代に顕著になったのである。
そういう意味で、宣祖は官僚による派閥闘争を最初に引き起こしてしまった国王、と言えるだろう。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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