ドラマ『トンイ』では張禧嬪(チャン・ヒビン)が悪女の典型として描かれていたが、一方で聖女のイメージが強かったのが仁顕(イニョン)王后だった。
史実で仁顕王后はどういう女性だったのか。
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1667年に生まれた仁顕王后は、粛宗の二番目の王妃になったのだが、1688年に廃妃になってしまった。粛宗が張禧嬪を寵愛して王妃にさせるために、仁顕王后を犠牲にしたのであった。
しかし、張禧嬪は悪事のために粛宗に嫌われ、1694年に側室に降格となってしまった。そして、仁顕王后が粛宗の正室として王妃に復位したのである。それまでに廃妃になった王妃は何人もいたが、再び王宮に戻ってこられたのは仁顕王后が初めてである。まさに人徳の賜物だった。
それなのに、その後も張禧嬪の悪事は続いた。特に、張禧嬪は何かと仁顕王后にきつく当たった。その最たることが呼び方だった。
本来なら、側室も女官も王妃のことを「中殿(チュンジョン)」と呼ばなければいけないのに、張禧嬪はいつも「閔氏(ミンシ)」と名前で呼んだ。敬称をはぶくというのは、当時としては非常に無礼なことだったのだが……。
いやがらせはひどくなる一方だった。張禧嬪は女官に仁顕王后の寝殿の窓に穴をあけさせ、中を覗いて見たことを周囲に言いふらすようにした。ここまで張禧嬪が仁顕王后を愚弄したのは、王妃に復帰したいという気持ちが強すぎたためだ。すでに粛宗の寵愛を失っているのに、張禧嬪は悪あがきをやめなかった。結局、王妃復帰に執着すればするほど張禧嬪の悪評も日増しに強くなった。
病弱だった仁顕王后が床に伏すようになったのは、1700年4 月以降だった。からだに腫れ物ができて激痛に襲われた。病状は一向に改善せず、彼女は長く苦しんだ末に1701年8 月14日に亡くなった。まだ34歳の若さだった。
こうした経歴の仁顕王后は、今まで時代劇で多くの女優が演じているが、もっとも強烈な印象を残したのが『トンイ』で扮したパク・ハソンだった。彼女は本当に仁顕王后の「聖女」の雰囲気をよく表現していた。
そんなパク・ハソンは2010年の『トンイ』が終わったあとも女優として存在感を示し、最近では『平日午後3 時の恋人』や『産後養生院』で需要なキャラクターを演じていた。『トンイ』から10年が経つが、美貌は変わらず、すばらしい知性を持った女優として活躍している。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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