血の因果による悲劇を生んだのは「光海君と仁穆王后の確執」が原因なのか

2025年03月03日 歴史 #康熙奉コラム #写真
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朝鮮王朝は常に王位継承のトラブルを抱えていた。

時代は14代王・宣祖(ソンジョ)が統治していた頃だ。彼の正妻は懿仁(ウィイン)王后なのだが、子供を産んでいない。そのために、側室が産んだ王子の中から後継者を選ぶ必要があった。

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後継者の最有力候補は、宣祖の長男・臨海君(イメグン)であった。しかし、彼は粗暴な性格で、民衆からの評判も芳しくなかった。そのような中、臨海君に代わって評価を高めたのが、二男の光海君(クァンヘグン)だった。彼は、優れた頭脳を持ち、豊臣軍との戦乱でも顕著な功績を挙げていた。最終的に、宣祖が世子に指名したのは光海君だ。

しかし、運命は大きく変わった。1600年に懿仁王后が亡くなり、代わって仁穆(インモク)王后が正妻となった。1606年、彼女は永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだ。宣祖は、永昌大君を世子にしたいと願っていたが、その望みが叶うことなく、1608年にこの世を去った。

こうして光海君が王位を継承した。彼の治世は、名君と呼ばれてもおかしくないほどの政治的成果を挙げている。庶民への減税、国防の強化、そして巧みな外交手腕によって善政を敷いたのだ。彼の政策は、多くの人々に恩恵をもたらした。

『ポッサム~愛と運命を盗んだ男~』の光海君
『ポッサム~愛と運命を盗んだ男~』ではキム・テウが光海君に扮した(写真=© MBN All rights reserved)

歴史に名を残す複雑な国王

しかし、光海君は王位継承の過程で多くの怨みを買っていた。彼の側近たちは、1609年に臨海君を殺害し、1614年には江華島(カンファド)に配流されていた8歳の永昌大君の命を奪った。さらに、仁穆王后に対しても過酷な仕打ちを行った。彼女の大妃(王の母)の身分を剥奪し、離宮に幽閉(ゆうへい)しただけでなく、彼女の実父を死罪にし、実母を奴婢(ぬひ)にまで貶めたのである。

仁穆王后の恨みは深く、彼女と光海君の「血がつながらない親子」は、ついに最悪の関係に至った。そして、1623年に光海君はクーデターによって王座を追われた。それは、彼の運命が報いを受けた瞬間であったのだろうか。

光海君の治世は、光と影が交錯するものであった。善政を敷いた名君の一面と、血の因果による悲劇の一面。その二面性こそが、彼を歴史に名を残す複雑な国王にしたのである。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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