チョン・イルが主演している『ポッサム~愛と運命を盗んだ男~』において、ドラマの中でたびたび話題になったのが大妃の存在であった。それは、歴史的には仁穆(インモク)王后のことだ。彼女の後半の人生は光海君(クァンヘグン)と激しく対立していた。なぜ、そんなことになったのか。その時代的な背景について解説しよう。
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光海君の父親であった14代王・宣祖(ソンジョ)。彼の正室だった懿仁(ウィイン)王后は1600年に世を去った。そこで、宣祖は1602年に仁穆王后と再婚した。
この仁穆王后が宣祖との間に産んだのが、嫡子の永昌(ヨンチャン)大君で1606年に生まれている。もし宣祖がもっと長生きしていれば、次の王は間違いなく永昌大君であっただろう。
しかし、宣祖は1608年に56歳で亡くなった。そのとき、永昌大君は2歳だった。この年齢で王になるのはとうてい無理だ。そのことは仁穆王后も認めざるをえなかった。それゆえ、仁穆王后の了解を得たうえで、15代王として光海君が即位した。
光海君と仁穆王后を比べると、年齢は光海君のほうが9歳上。しかし、形のうえで、仁穆王后は光海君の母となる。つまり、大妃(テビ)なのである。
仁穆王后は、正室として宣祖の王子を産んだというブライトが強かった。それだけに、息子に該当する光海君が大妃である自分を厚遇すると思っていた。だが、現実はまったく違った。光海君は即位後も強いあせりを感じていて、結果的に側近たちの陰謀を止められず、兄弟たちと骨肉の争いを起こした。その騒動の果てに永昌大君も1614年に命を奪われてしまった。
仁穆王后の恨みは甚だしかった。それも当然だ。さらに、仁穆王后は離宮に幽閉されて、自由を完全に阻まれてしまった。しかも、質素な生活をしなければならないほど経済的にも困窮した。彼女からすれば、光海君によって恩をあだで返された、という強い恨みが残った。それが、光海君が後にクーデターを起こされた要因の一つになってしまった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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