【歴史コラム】『ポッサム』で政治力を示す光海君は外交で成果を発揮できたのか

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『ポッサム~愛と運命を盗んだ男~』はチョン・イルとクォン・ユリが演じるロマンス時代劇としても魅力があるが、同時に歴史を重厚に描いたドラマとしても本当によく出来ている。その中で光海君(クァンヘグン)の外交政策にもしっかりスポットを当てている。そのことを史実で振り返ってみよう。

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光海君は1608年に王座についたが、その時期、中国大陸では明と後金(後に清となる)という二つの強大な国が、激しい領土争いを繰り広げていた。明の勢力は徐々に衰えていったのだが、その明から朝鮮王朝は援軍の要請をしきりに受けた。しかし、後金の軍事力は圧倒的であり、これに逆らえば国が危機に瀕する可能性があった。

光海君は、このような状況の中で巧妙な外交戦術を展開していく。彼は、明からの援軍要請をうまくかわしながら、最終的には僅かな援軍を送るという選択を行なった。加えて、彼は後金に使者を派遣し、朝鮮王朝の立場を細かく丁寧に説明した。

すなわち、彼は明と後金のどちらが勝ち残ろうとも、朝鮮王朝が安泰であり続けるようにふるまったのだ。これが、正しい選択であったことは、後の歴史が証明している。

このようにして、光海君の二股外交は成功を収めた。事実、後金が明を打ち破った後も、朝鮮王朝は安定を保ち続けていた。

キム・テウが光海君を演じた(写真=© MBN All rights reserved)

堅実な政治能力

しかし、1623年に光海君はクーデターによって追放され、次の王である16代王・仁祖(インジョ)が即位すると、彼は後金を侮辱して怒らせてしまった。そして、後金が国名を清に変更した後、彼らは朝鮮王朝に侵攻して勝利した。1637年1月、仁祖は清の皇帝の前で土下座のように謝罪した。完全に外交の失敗であった。

光海君があのまま王位に就いていれば……。朝鮮王朝は安泰だったかもしれない。それほど光海君は外交が巧みだったのだ。そんな光海君を『ポッサム~愛と運命を盗んだ男~』ではキム・テウが演じて、堅実な政治能力を見せる演技を繰り広げていた。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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