1724年に20代王・景宗(キョンジョン)が急死した。その背景には、異母弟の英祖(ヨンジョ)が医官たちの反対を押し切り景宗に「ケジャンと柿」「人参茶」を差し上げたという事実があった。
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医官たちは医療の専門家であり、英祖は素人だ。それなのに、なぜ英祖は専門家の意見を無視して景宗に食べ合わせが悪いものを勧めたのか。この行動が、後に景宗毒殺の首謀者として英祖の名前が上がる根拠となった。
実際、景宗の病状がよくないときに、英祖は医官たちと対立してでも、自分の意見を通した。結果がよくなればいいのだが、最悪の方向へ行ってしまった。こうして、英祖は二度にわたり専門医である医官たちの意見を聞かず、疑わしい状況を自ら作り出してしまった。果たして、彼はなぜそんなことをしたのか。
理由の一つは、彼の偏屈な性格だ。英祖と景宗は母親同士が対立したライバル同士(淑嬪・崔氏〔スクピン・チェシ〕と張禧嬪〔チャン・ヒビン〕)だが、息子の2人は仲が良かった。そんな中で、英祖は本当に異母兄に良かれと思って「ケジャンと柿」「人参茶」を差し上げたのかもしれない。それも、偏屈なくらい強引に……。
もう一つは、本当に英祖が景宗の命を奪うために行なったという説だ。実際、景宗が亡くなれば英祖に王位がまわってくるのであるから、彼が意図的に細工したという話にも信憑性があった。
結局、真相は最後まではっきりしなかったが、「英祖が景宗を毒殺した」という主張をした一派が反乱を起こしている。こうなると、単なる噂だと放っておくことはできない。英祖も反乱を鎮圧して自分に向けられた毒殺説を強硬に否定してみせた。
しかし、毒殺説は消えることなく残り続け、国王と対立する少論派はこの問題を何度も取り上げた。英祖の立場は不安定となり、王権交代を狙う者たちによって彼は薄氷を踏むような危うい状況に追い込まれた。
歴代の王たちと同様に、英祖もまた、即位してからは自分の力量が試されているという重圧を感じることになった。結局、英祖と景宗の関係と政治的な混乱が相当に根深かった、と言わざるを得なかった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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