朝鮮王朝には42人の王妃がいたが、聖女のような人もいれば、鬼のような人もいた。その中で「まるで悪魔そのもの」と後世で言われたのが文定(ムンジョン)王后であった。彼女は11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の妻であり、継子だった世子(セジャ/王の後継者)は中宗の二番目の正室から生まれた息子だった。
【関連】【血も涙もない悪女】善人国王「仁宗」を襲った「冷血な継母」文定王后の罠とは?
野史には、文定王后が自らの子を王位に就けたいために世子の命を狙ったという伝聞が記され、『宮廷女官 チャングムの誓い』にもこのエピソードが描かれていた。正史である『朝鮮王朝実録』においても、文定王后の多くの不審な行動が記録されている。
中宗の死後、世子は12代王・仁宗(インジョン)として即位したが、すぐに重病に倒れた。その際、仁宗が文定王后のもとで餅を食べたことが疑念のきっかけとなり、「その餅に毒が……」との噂が広まった。
文定王后は、その後も不可解な行動を続け、『朝鮮王朝実録』にもその行状が記されている。仁宗が重病に伏せっているにもかかわらず、文定王后は王宮の外に出たがり、重臣たちを困惑させた。なぜなら、混乱を防ぐために外出は控えてくださいと重臣たちが進言しても、彼女が外出を強硬に主張したからだ。
文定王后のこの行動は、仁宗の病状を王宮の外にもらす目的であったと推察される。事実、彼女が仁宗の命を狙っていたことは、半ば公然の秘密であった。
仁宗は、1545年7月1日にこの世を去った。その後、文定王后の息子が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位し、文定王后は冷酷な態度で仁宗の葬儀を軽視した。服喪の期間が短縮され、陵墓も格下げされるなど、彼女の冷徹さが窺える。
大妃(テビ/王の母)となった文定王后は、権力を握り、一族で政権を独占した。政治は腐敗し、賄賂がはびこった。本当にひどい世の中になった。
その元凶は間違いなく文定王后であった。彼女は『オクニョ 運命の女(ひと)』でも極端な悪女として描かれていた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
■【関連】【朝鮮王朝最大の謎】継母の王后は本当に王様を毒殺したのか
前へ
次へ