11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の妻が文定(ムンジョン)王后である。彼女は42人いる王妃の中で一番の悪女と言われている。それは、大変な親孝行で有名だった12代王の仁宗(インジョン)を毒殺したと思われているからだ。本当に文定王后は冷血な人だった。
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そんな継母の文定王后に殺されたと言われる仁宗は、どれほど親孝行だったのか。
1544年の11月、父の中宗(チュンジョン)が深刻な病に襲われた時、長男である仁宗は父の病床に寄り添い、手厚い看病を自ら行なっていた。さらに、仁宗の孝行心は度を越えていた。なにしろ、彼は食事さえも控えるという過激な行動に出てしまったのだ。この願掛けは、結果として仁宗自身も衰弱させる原因となった。
仁宗の側近たちもこう嘆いた。
「世子様(ここでは仁宗)は、お粥すら口にすることがありません。何度も『お食べください』と頼んでも受け入れてくれません。国家のことを心配するのであれば、何としても食事を摂っていただくべきなのですが……」
側近たちの懸念も当然だった。いくら親孝行とはいえ、次代を担う世子が絶食によって健康を損なってしまうと、王家自体が深刻な危機を迎えてしまう。最終的には、大臣たちが集まって説得し、ようやく仁宗は少しだけお粥を食べ始めたと伝えられている。
その直後、中宗はこの世を去った。仁宗は慟哭し続けた。
しかし、いつまでも悲嘆に暮れているわけにはいかない。仁宗自身が朝鮮王朝の玉座につき、国家を統治しなければならないのだ。その統治に対する期待はとても高かったが、結局は文定王后によって毒殺されてしまった。まことに惜しい才能を持った国王の命が奪われた、と言わざるをえない。
なぜ文定王后はそんな残虐なことができたのか。それは、自分が産んだ我が子を国王にするためであった。そこで、血がつながっていない仁宗を亡き者にしたのだ。本当に血も涙もなかった。文定王后は朝鮮王朝で最も悪事を働いた王妃であった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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