テレビ東京の韓流プレミアで5月17日に『イ・サン』の第1話が放送されたが、冒頭から「米びつ餓死事件」が衝撃的に描かれていた。
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このとき、思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めた英祖(ヨンジョ)の怒りが尋常ではなかった。ドラマでは「6日間も水と食料を与えなかった」と描写されていたが、英祖はなぜそこまで強硬だったのか。
歴史的に言うと、思悼世子が米びつに閉じ込められる騒動の発端になったのは、1762年5月22日の出来事だ。羅景彦(ナ・ギョンオン)という官吏が、「世子が謀反をたくらんでいます」と訴え出てきたのである。
これが王朝の一大事となり、報告を受けた英祖は激怒した。すぐに彼は緊急事態を発令して、思悼世子の弁明を聞こうとした。
こうして思悼世子は王の寝殿に入ってきて前庭で平伏した。
英祖は息子を叱りつけた。
「世子なのに、どうしてそんなことができるのか」
思悼世子はただ地面に伏していた。
実際は、思悼世子の失脚を願う老論派の高官たちが羅景彦をそそのかした可能性が高かった。なにしろ、老論派は思悼世子の最大の政敵であったからだ。結局、英祖は思悼世子の悪評だけを老論派から繰り返し報告されて、息子が信じられなくなっていた。その末に彼は思悼世子に自決を命令した。
しかし、思悼世子が側近たちに制止されて自決しなかったので、米びつを運ばせてそこに思悼世子を閉じ込めてしまった。
「お願いです。命だけは助けてください」
思悼世子は哀願したのに、英祖は息子の願いを聞き入れなかった。
それだけではない。彼は「絶対に米びつを開けてはならない」と厳命して寝殿に帰ってしまった。
当時、米びつから思悼世子の嗚咽(おえつ)が盛んに聞こえたという。
それでも、英祖は米びつを開けなかった。頑固一徹だった英祖が思悼世子の命を奪うつもりであったことは間違いない。それは、後継者としての思悼世子に「失格」の烙印を押したからに他ならない。こうして「朝鮮王朝最大の悲劇」は起こってしまった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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