朝鮮王朝の27人の国王の中で、4人の王妃を持った国王は1人しかいない。それが19代王の粛宗(スクチョン)である。
彼の最初の王妃は仁敬(インギョン)王后で、1680年に亡くなっている。粛宗とは2人の王女をもうけた。
2人目の王妃は仁顕(イニョン)王后で、彼女は一度廃妃(ペビ)になったが、後に王妃に復帰した。しかし、1701年に亡くなった。子供はいなかった。
3人目の王妃がチャン・ヒビンであり、世子(セジャ)の母親になっている。彼女は1694年に側室に降格し、1701年に死罪で世を去った。
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このように3人の王妃を持った粛宗だったが、仁顕王后が1701年に亡くなったときに、次の王妃をどうするかが大問題となった。
誰が考えても、トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)が最有力だった。
しかし、粛宗は驚くべき法律を急に作った。それは、「今後は側室から王妃に昇格できないようにせよ」という内容だった。いかにも淑嬪・崔氏を標的にするような法律であり、粛宗にはどんな意図があったのか。
チャン・ヒビンの死罪をめぐって淑嬪・崔氏に不信感があったのは確かであり、粛宗は淑嬪・崔氏を王妃にする気持ちはなかった。それによって選ばれたのが仁元(イヌォン)王后であった。
彼女は1701年に王宮に招かれ、翌年に正式に王妃になった。1687年の生まれで、淑嬪・崔氏より17歳も若かった。
仁元王后は重臣の娘であり、家柄がとてもよかった。そういう意味では、チャン・ヒビンや淑嬪・崔氏よりずっと王妃としての資格に恵まれていた。
14歳という若さで王妃になっただけに、王子を産むことも大いに期待されたのだが、彼女は結局子供ができなかった。
その代わり、淑嬪・崔氏の息子であったヨニングンの立場を保護したと伝えられている。淑嬪・崔氏にとって、仁元王后は頼りになる王妃であったのだ。
粛宗が1720年に亡くなった後も、仁元王后は王宮内で大妃(テビ)として影響力を持ち続けた。亡くなったのは1757年で、享年は70歳だった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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