11代王・中宗(チュンジョン)の息子として「王朝一の親孝行」と言われたのが、世子の李皓(イ・ホ)であった。李皓は中宗の2番目の妻であった章敬王后(チャンギョンワンフ)から生まれた。病弱だった章敬王后は王子を産んで6日後に亡くなってしまった。つまり、李皓は母を知らずに育ったのだ。
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その後、李皓は中宗の3番目の妻となる文定王后(ムンジョンワンフ)に育てられる。その文定王后は1934年に慶源大君(キョンウォンデグン)を産んだ。すると、性格が極端に悪かった文定王后は、慶源大君を王位に就けたいと欲深くなり、李皓の命を狙うようになった。その手口があまりに露骨で、世子が寝ている部屋に火を放つという暴挙も行なっている。
そんな魔の手から李皓はかろうじて逃れてきた。
1544年に中宗が亡くなった。本当に親孝行だった李皓の悲しみは深く、食が喉を通らなくなった。それゆえ、彼は12代王・仁宗(インジョン)として即位しても体調が良くなかった。
そんな中で、文定王后は仁宗に対して挨拶に来るように呼び出した。王といえども大妃に礼を尽くさなければならないので、仁宗は臣下たちが止めるのも意に介さず、文定王后の部屋を訪ねた。
文定王后は上機嫌で餅を勧めてきた。親孝行の仁宗は断ることもできず、餅をそのまま食べた。しばらくすると、下痢がひどくなり数日後には高熱を発した。
医官たちの手厚い治療が続いたが、仁宗の容体は一進一退となり、最後には回復が望めないほどになった。そんな最中でも文定王后は不必要な外出を何度も繰り返して宮中を混乱させた。彼女は王の病状をまったく心配してしない素振りだった。
結局、1545年7月に仁宗は30歳で亡くなった。彼には息子がいなかったので、異母弟の慶源大君が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。
本来なら、王であった仁宗の葬儀は王朝最大の規模で行なわなければならないのに、文定王后は葬儀の格を極端に落としてしまった。
そこまで冷遇な文定王后。彼女が仁宗に渡した餅に果たして毒が入っていなかったと言えるのか。
結果から見れば、文定王后は未成年の明宗に代わって政権を独占して賄賂政治を横行させた。そんな無茶ができたのも、仁宗が急死したからだ。後世の人たちは文定王后が毒殺説の首謀者であると見なしていた。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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