【悲劇の王】即位8か月で亡くなり毒殺説もある仁宗とは何者か

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朝鮮王朝27人の王の中で、最も親孝行でかなりお人好しな性格だったのが12代王の仁宗(インジョン)だ。彼はどんな人生を歩んだのだろうか。

仁宗は、11代王・中宗(チュンジョン)と二番目の正室の章敬王后(チャンギョンワンフ)の息子として1515年に生まれた。王になる前は峼(ホ)という名前だった。

しかし、母親の章敬王后は出産から6日後に亡くなってしまったため、仁宗は中宗の三番目の正室である文定王后(ムンジョンワンフ)に育てられた。

文定王后は、1534年に産んだ息子を王にしたいと思っていたが、すでに峼が世子(セジャ)として指名されていたため、それは不可能に近いほど難しかった。

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それでも諦めなかった文定王后は驚きの行動に出る。なんと、世子を殺害するために宮殿に火をつけたのである。

当時、結婚して妻がいた峼は火事に気付いて妻を先に逃がしたが、彼自身は逃げようとしなかった。峼は自分の師を望む文定王后のために、自ら死を選んだのだ。

毒殺された可能性

妻はそんな夫を見捨てようとせず一緒に宮殿に残るが、結果的に2人は助け出されたため、文定王后の計画は失敗に終わった。

1544年に父親の中宗が世を去り、峼は12代王・仁宗として即位する。しかし、父親の死は自分の責任だと自らを責めていた仁宗は体調を崩してしまう。

そんな彼を側近たちが心配する一方で、文定王后は息子を王にすることだけを考えていて、仁宗に対する態度はとても冷たかった。
最終的に、仁宗は即位から在位わずか8カ月で世を去ってしまう。

これだけ在位が短かった仁宗は、特に王としての功績もないし、跡継ぎとなる息子もいなかった。そのため、文定王后の息子が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。

しかし、この文定王后が仁宗を毒殺した可能性がある。その理由としてこんな話がある。

仁宗に対してずっと冷たい態度をとってきた文定王后だが、1545年に祭祀(チェサ)が終わった後、仁宗を自分のところへ呼んだ。

部屋を訪ねるた彼は、文定王后から持ちを勧められる。それを喜んで食べた仁宗は体調を悪化させてしまったからだ。

自らの命を危険にさらしてまで親孝行しようとした仁宗が、どれだけ立派な王だったか7がよくわかる。もし長生きしていたら、朝鮮王朝はさらにいい時代になっていただろう。

文=大地 康

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