我が子のために王を毒殺して権力を牛耳った鬼の大妃とは?

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時代劇の傑作である『宮廷女官 チャングムの誓い』の第49話では、チャングムが文定(ムンジョン)王后から世子(セジャ/王の後継者)の毒殺を依頼される場面が出てくる。

この文定王后は11代王・中宗(チュンジョン)の三番目の正室で、世子は中宗の二番目の正室から生まれた息子だった。

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自分が産んだ息子をぜひとも王位に就けたくて文定王后が世子の殺害をはかった、という伝聞が、当時の野史(民間の間で伝えられた歴史書)にも出てくる。そうした噂を『宮廷女官 チャングムの誓い』も取り入れたのだ。

『宮廷女官チャングムの誓い』(写真=2003-2004 MBC)

野史だけでなく、正史である「朝鮮王朝実録」を読んでも、文定王后には怪しい行動が実に多い。

世子は中宗が世を去ったあとに12代王・仁宗(インジョン)となるが、王位に就いてすぐに重病に陥ってしまった。その直前に、仁宗は文定王后のもとを訪ねて餅を食べている。すぐに、「その餅に毒が……」という疑念が仁宗の周囲から起こった。

実際、仁宗が病に臥してからも、文定王后は不可解な行動を続けている。その行状は「朝鮮王朝実録」に記されているが、仁宗が深刻な病状になっているのに、文定王后は王宮の外に嫁いだ自分の娘の家に行きたいと言いだして重臣たちを困惑させた。

「今は絶対にお控えくださるようにお願い申し上げます。人々がそれを知れば、疑いが生じて反乱が起きかねません」

文定王后の悪役ぶり

こう言って重臣たちは文定王后に自重を促したが、彼女は再三にわたって強硬に外出を主張した。一度王妃になった女性は、どんな事情があろうとも、王宮の外に出ないことがしきたりであったのだが……。

文定王后が「外出」にこだわったのは、宮中を混乱させることと、仁宗の病状を外部にもらすことが目的だったと思われる。実際、文定王后が仁宗の命を狙っていたことは、なかば公然の秘密でもあった。

仁宗は、1545年7 月1 日に亡くなった。彼の後を継いだのは文定王后の息子で、13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。すると、文定王后は早くも冷酷な一面を見せ、仁宗の葬儀をおそろしいくらいに冷遇した。服喪期間は短縮され、陵墓も格下げとなってしまった。

大妃(テビ/王の母)となった文定王后は、権勢をほしいままにして、一族で政権を独占した。政治は腐敗し、賄賂が横行した。悪政の最たるものであった。

結果的に、朝鮮王朝27人の王の中で毒殺されたと噂される人が何人もいるが、仁宗の場合が一番可能性が高いと言われている。それだけ、文定王后の殺意は明白だった。

なお、文定王后の悪役ぶりは時代劇『オクニョ 運命の女(ひと)』でも、たっぷりと描かれていた。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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