『トンイ』を初めとして朝鮮王朝を舞台にした時代劇で本当によく出てくる19代王の粛宗(スクチョン)。朝鮮王朝に27人いる国王の中で、粛宗は頭の切れがピカイチだったと言われている。
しかし、あまりに性格がわがままだった。それゆえ、王宮の中で大騒動に発展する女性トラブルを何度も起こしている。それは、数々の時代劇で描かれたとおりなのだ。
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そのあげくに、彼は奇妙な法律を作っている。それは、「側室から王妃に昇格できないようにせよ」というもので、事実上、側室の夢をぶち壊したのだ。
なにしろ、彼の前には、側室から王妃にのぼりつめた女性が何人もいた。もちろん、側室にしてみたら、王妃になれるチャンスがあることが最大の励みになっていたのだ。しかし、粛宗はそんな側室のシンデレラ物語をつぶしてしまった。
なぜ、彼はそんな法律を作ったのか。
具体的に法律が作られたのは1701年のことだ。当時、仁顕(イニョン)王后が病死して、張禧嬪(チャン・ヒビン)が呪詛(じゅそ)した大罪を責められて死罪になっている。
そうなると、淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)が次の王妃の最有力候補だった。この女性は、ドラマ『トンイ』でハン・ヒョジュが演じたヒロインのモデルになっていたのだが、粛宗が奇妙な法律を作ったせいで、王妃になる道を断たれてしまった。
しかし、それこそが粛宗の狙いだったのではないか。
というのは、淑嬪・崔氏は張禧嬪が死罪になる上で重大な密告をした張本人で、派閥を動かしていた黒幕の愛人ではないか、という噂が王宮の中で広まっていた。
粛宗もその噂を知らなかったわけではないだろう。結局、彼は淑嬪・崔氏を王妃にするわけにはいかないと腹をくくり、あえて「側室から王妃になれない」という法律を作った可能性がきわめて高い。
こうして、粛宗は新しい王妃に仁元(イヌォン)王后を迎え、淑嬪・崔氏を王宮の外に出して冷遇している。
このあたりは、粛宗なりに王宮の秩序を保とうとしたのだろう。女性トラブルが多かった彼だが、納めるところはしっかり行動していたのである。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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