朝鮮王朝の19代王の粛宗(スクチョン)といえば、『トンイ』でチ・ジニが理性的に演じていた。そのイメージに引っ張られると、粛宗が非常に好男子だと思われるが、実際には女性問題でかなりトラブルを起こしており、歴史的にもあまり評判がよくなかった。
しかし、統治能力はかなり高かったようで、国防の強化や経済の活性化などでかなりの成果をあげている。
そういう意味でも、「仕事ができたが女性遍歴も派手だった」という言葉が粛宗のことを端的に表していた。
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彼の人生を見ていると、育ち方が決定的に影響していたと言える。
その粛宗は1661年に生まれている。
父は18代王の顕宗(ヒョンジョン)であり、母は明聖(ミョンソン)王后だった。
この明聖王后は4人の子供を産んでおり、長男が粛宗であった。
あとは3人の娘がいた。要するに、粛宗は顕宗の一人息子なのである。
とはいえ、国王は何人もの側室を抱えるのが普通なので、本来なら粛宗にも異母兄弟がいたはずだ。しかし、そうはならなかった。それは、顕宗が朝鮮王朝の歴代王27人の中で唯一、側室を持たなかった国王だと言われていたからだ。
そういう事情から粛宗は正真正銘の一人息子であり、両親の期待を一身に集めて次代の後継者として帝王学をたっぷり教えられて育っていった。
もともと聡明な性格だった。しかも、立派な教育をたっぷり受けたので、能力的に申し分がない国王になった。
しかし、極端に甘やかされて育ったこともあり、独善的に行動していくタイプになっていった。そうしたわがままな生き方の中で、派手な女性遍歴を重ねた。そのあげくに、王宮の中で張禧嬪(チャン・ヒビン)の横暴を許す結果になったのである。
それだけではない。最終的に粛宗には4人の王妃と5人の側室がいたが、重臣たちが困惑するほど彼は王妃や側室の立場をコロコロと変えていった。その典型が仁顕(イニョン)王后であり、彼女は廃妃になったと思ったら数年後にはまた王妃に復帰したりしていた。
このように、王宮の中で粛宗に振り回される人は数多くいた。案外、粛宗は困惑している重臣や王族の様子を大いに楽しんでいたのかもしれない。それほどトラブルが好きな国王であった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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