済州島(チェジュド)といえば、韓国の国際的なリゾート地として有名だが、朝鮮王朝時代は過酷な流刑地であった。そこに流された人の中には国王もいた。それが、朝鮮王朝第15代王・光海君(クァンヘグン)だ。
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彼の命運は1623年に変わった。仁祖(インジョ)が起こしたクーデターにより、王宮から追放されてしまい廃位とされた。その結末として、最終的に彼は済州島へと向かわざるを得なかった。
船で護送した役人たちは、光海君の心情を思いやり、船の周囲に幕を張り、目的地を知らせないよう努めた。しかしながら、済州島の土を踏めば、その場所を理解するのは容易であった。彼は涙を堪えきれず、「この地に至る運命とは…」と言葉を失った。
済州島の役人も、光海君の境遇に深い同情を示した。
「もし、不届きな臣下を遠ざけ、政治の乱れを防いでおられたならば、ここまで辿り着くことはなかったでしょう」
役人はそのような慰めの言葉を光海君にかけたという。
済州島での生活は、光海君にとっては試練の連続であった。それでも彼は、王の誇りを失うことなく、凛として時を過ごした。
一方、朝鮮王朝第10代王・燕山君(ヨンサングン)は、あまりにひどい暴政を続けた末に、王朝の将来を憂えた高官たちによってクーデターを起こされて、自業自得と言えるような廃位となってしまった。
燕山君は1506年に都に近い江華島(カンファド)に流され、そこで静かな余生を送るものと思われた。しかし、予想外にも、たった2カ月でこの世を去ってしまった。病死なのか、それとも、毒殺されたのか。それはよくわかっていない。
光海君の場合は済州島の地で長い時を生き抜いた。彼の生涯は1641年まで続いた。廃位後から数えれば18年間の歳月が流れたのである。
2カ月と18年。同じくクーデターで廃位とされた燕山君と光海君だが、その後に生きた年月はあまりにも違いすぎた。今でも燕山君は暴君のままだが、光海君は政治能力が再評価されて「名君だったのでは」と言われることもあるほどだ。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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