ドラマ『七日の王妃』では、パク・ミニョンが端敬(タンギョン)王后を美しく演じた。このドラマのタイトルになっている「七日」というのは、端敬王后が実際に王妃でいられた日数だ。実際、彼女は王妃になって8日目に廃妃(ペビ)となって寂しく王宮を去らなければならなかった。
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燕山君(ヨンザングン)がクーデターで追放された後に国王になったのが、端敬王后の夫の中宗(チュンジョン)である。彼は、王位を獲得した代償として愛する妻と離縁せざるを得なかった。端敬王后の親族があまりに多く燕山君の関係者になっていたからだ。そのとばっちりを一番受けたのが端敬王后であった。
しかし、妻を理不尽に離縁するとき、中宗は端敬王后と重大な約束を交わしていた。それは、「かならず王宮に呼び戻すから、それまで待っていてほしい」ということだった。
この言葉を信じて、端敬王后は虚(むな)しい日々に耐えた。しかし、この約束は実現されないまま中宗は1544年に亡くなった。
結局、端敬王后は廃妃になってから一度も中宗に会えなかった。『七日の王妃』では、最後に病床の中宗が端敬王后に会えたかのような描き方だったが、実際の歴史はあまりにも無情であった。それでも、彼女は中宗との重大な約束が果たされなかったことを決して恨まなかった。ただ、人生のはかなさを嘆くのみだった。
端敬王后が世を去ったのは1557年だ。廃妃になって51年が過ぎていた。
彼女の遺言が残っている。それは、「私が死んでも、王朝は関心を示さないでしょう。祭祀は実家の甥たちが行なってください」ということだった。
当時の国王だった明宗(ミョンジョン)は、端敬王后の死に際して田畑や俸禄などを贈っている。明宗としては亡き父の前妻に対する精一杯の気持ちだった。
端敬王后の遺体は彼女の父親の慎守勤(シン・スグン)の墓のそばに埋葬された。
慎守勤も燕山君が廃位になったときにクーデター派によって殺されていた。それは『七日の王妃』でも描かれていたことだった。
本当に、運命に翻弄された父と娘であった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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