1392年に建国して1910年に終わった朝鮮王朝には27人の国王がいる。その中で、兄への毒殺疑惑が取りざたされている弟が3人いる。特に疑惑が大きいのが7代王・世祖(セジョ)と21代王・英祖(ヨンジョ)であり、多少の疑いを持たれているのが17代王・孝宗(ヒョジョン)だ。それぞれの疑惑について解説していこう。
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世祖[1417~1468年]
4代王・世宗(セジョン)の長男が文宗(ムンジョン)で、世祖は二男だった。兄は1450年に即位したが、2年で急死してしまった。当時は、世祖が毒殺したのではないか、という疑いがあった。
しかし、確証がえられないまま、文宗の長男が6代王・端宗(タンジョン)として即位したが、世祖は甥の端宗を脅して王位を奪ってしまった。
このように、強引な手口で自分の野望をかなえようとした世祖だけに、兄の毒殺も可能性が高いと後世の人たちは考えていた。世祖は即位したあとに端宗を死罪にした。それは、あまりに非道なことだった。
孝宗[1619~1659年]
父親は仁祖(インジョ)だ。この仁祖は中国大陸の清に攻められて1637年に降伏したのだが、清の皇帝に対して頭を地面にこすりつけて謝罪するという屈辱を受けた。それゆえ、清に強い復讐心を持っていたが、清の人質になってから解放された息子の昭顕世子(ソヒョンセジャ)は、なんと父親の仁祖によって1645年に毒殺された疑いが非常に強い。
なぜなら、昭顕世子が清の文明を学ぶ姿勢を持っていたからだ。昭顕世子の弟だった孝宗も清に強い復讐心を持っていて、父親が兄を毒殺する謀議に加わっていたと噂されていた。
英祖[1694~1776年]
異母兄の景宗(キョンジョン)は1720年に即位したが、わずか4年で急に亡くなってしまった。すかさず、王宮の中で英祖が毒殺したのではないか、という疑惑が深まった。
英祖には異母兄に代わって国王になりたいという野望があり、食べ合わせがよくない「カニと柿」を景宗に勧めたということも根拠になっていた。この疑惑は反乱まで誘発しているが、即位した英祖が力づくで疑惑を打ち消した。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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