巨済島(コジェド)で1927年に生まれ、釜山(プサン)で高校時代を過ごした政治家がいる。金大中(キム・デジュン)とともに民主化運動のリーダーの一人であり、後に大統領になった金泳三(キム・ヨンサム)である。
金泳三の出身地でもある釜山地方は、民主化運動の中心地の一つとしても知られている。
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釜山駅近くの高台に2003年、民主公園が作られた。公園には1960年、李承晩政権を打倒した4・19革命の慰霊塔などの記念碑と伴に、釜山地方の民主化闘争の歴史を記した民主抗争記念館がある。
民主公園のある高台からは、釜山の港や街並みがよく見える。この釜山では、4・19革命の時も大規模なデモが繰り広げられたが、1979年10月、釜山と隣の馬山(マサン)で起きたいわゆる釜馬事態は、朴正煕政権崩壊の引き金になった。
この年の9月、当時野党・新民党総裁であった金泳三は、ニューヨーク・タイムスとのインタビューで政府批判をし、アメリカは朴政権支持を中止するように訴えた。この発言に対して10月4日、国会では金泳三除名決議案が可決された。
金泳三の地元・釜山では、この決議案に反発。10月16日に釜山大学で始まったデモは一般市民にも広がり、釜山市庁前を中心に「朴政権打倒」を叫ぶ、大規模な反政府デモに発展した。そのデモは、馬山にも飛び火した。
18日には釜山地域に非常戒厳令が発令されたが、この事態に、大統領警護室長の車智澈(チャ・ジチョル)らは、徹底した武力鎮圧を主張したのに対し、アメリカなどの目を気にするKCIA部長の金載圭(キム・ジャギュ)は消極的で、2人は激しく対立した。
そして26日、金載圭は車智澈と伴に朴大統領を殺害したのであった。朴大統領殺害の背景には様々な説があるが、釜馬事態への対処を巡る対立が直接的原因であることは確かだ。
もともと釜山市庁は、影島大橋のたもとの南浦洞(ナミポドン)や光復洞(クァンボットン)の近くにあった。市街地にあっため、市庁付近はしばしばデモの集結所になった。
ところが市庁は、1998年に東莱(トンネ)温泉に近い市街地の北側に移転し、その跡地には高さ510メートル、120階建てのロッテワールドの建設が進んでおり、2009年からは、先行してロッテデパートがオープンしている。
新たにリニューアルした街から、民主化運動が盛んだった当時をしのぶことは、難しくなった。
朴大統領の死亡で、「ソウルの春」と呼ばれる民主化運動の盛り上がりをみせたが、1980年5月17日に非常戒厳令が全国に拡大され、その翌日からは、軍の主力部隊が光州(クァンジュ)に投入され、多くの市民が犠牲になった光州事件が起きた。それにより民主化の夢は、当局に弾圧されて終わった。
光州事件の首謀者は、当時軍を掌握していた全斗煥(チョン・ドゥファン)のグループであることは確かだ。
とはいえ問題は、彼らだけでないことを感じていた人たちがいた。その思いを行動に移したのが、1982年3月18日に起きた、大学生による、釜山のアメリカ文化センター放火事件である。
当時、韓国軍の作戦統制権は、平時、戦時とも米軍が掌握していた。したがって、光州への主力部隊の投入は、アメリカの何らかの承認なしには困難だし、仮に一切関知していなかったとしても、韓国軍の光州への移動を止めることができるのは、アメリカしかなかった。そうした思いは、今日の反米感情の根っこに残っている。
国際市場の北側にあるアメリカ文化センターの建物は、日本の植民地時代、東洋拓殖会社の釜山支社として作られたもので、解放後、アメリカが所有していた。
建物は1999年に韓国に返還され、現在は釜山近代歴史館になっている。
釜山は、日本に近く、北朝鮮に遠い地理的条件ゆえに、独特の発展を遂げてきた。韓国は日本以上に首都一極集中が進んでいるが、韓国第2の都市である釜山が、韓国の現代史に与えた影響は、非常に大きい。
文=大島 裕史
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