【深発見35】白村江の戦いの地であり日本統治下には「恨」の地

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月明山(ウォルミョンサン)の群山(クンサン)海望トンネルを取り抜ければ、黄海の入り口でもある錦江の河口に出る。韓国西海岸独特の遠浅の海の干潟は、海鳥たちの楽園である。

私が行った時は雨上がりで、霧で視界が悪かった。今は静かで平和な河口だが今から1361年前、河の水が血で染まるほどの戦いがあった。

660年、唐・新羅連合軍によって扶余は陥落し、百済は事実上滅亡した。しかし日本には、百済最後の王である義慈王(ウィジャワン、在位641~660年)の子である、余豊璋(ヨ・プンジャン)がいた。

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百済の残存勢力は豊璋王子を日本から呼び戻し、百済復興軍を結成した。中大兄皇子を中心とする大和政権も全面的に支援し、朝鮮半島に大軍を派遣した。

そして、大和政権・百済復興軍と唐・新羅連合軍は、錦江の河口で激突した。日本史に言う「白村江(はくすきのえ)の戦い」である。

ところが、百済復興軍は内紛が生じ、弱体化していた。そのため、大和政権・百済復興軍は大敗、百済は名実ともに滅亡した。

一方、大和政権は唐からの報復を恐れ、国防体制を強化し、都を飛鳥から大津に移した。そして即位して天智天皇となる中大兄皇子は、近江令を制定するなど、律令国家の体制を確立していく。敗戦による危機意識は、国家としての体制を固める契機になったわけだ。

戦略的要衝である錦江の河口では白村江の戦いの後も、戦いが続いた。

唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼしたが、今度は朝鮮半島での支配を強める唐と新羅が対立。高句麗、百済の遺民も巻き込んだ激しい戦いが繰り返された。

そして676年、新羅が錦江河口で唐を破り、唐は平壌(ピョンヤン)を流れる大同江(テドンガン)以北に撤退した。これによって、新羅の三国統一が完成したことになる。

錦江河口

日本が律令国家として体制を固める契機となった戦いの舞台であり、新羅の三国統一最後の戦いの地である錦江河口が、日本の植民地時代は、米の積み出し港として韓国の人たちの「恨」の対象になったことは、歴史の皮肉である。

ただそれは日本と韓国の関係が、いろいろな意味で深いことを物語っている。

文・写真=大島 裕史

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