【深発見41】日本人が知らない韓国・光州=クァンジュ事件の悲劇 

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百済(ペクチェ)の故地であった韓国中西部を旅する時、百済時代は武珍州(ムジンジュ)と言い、古くからこの地域の中心的な街であった光州(クァンジュ)は、欠かすことができない。

ただし、その名を聞いて、まず思い浮かぶのは、1980)年5月に起きた、いわゆる光州事件である。

1979年10月26日、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が射殺され、18年に及ぶ長期独裁政権の幕が下ろされた。12月7日には、朴正熙独裁の象徴であった、維新憲法に対する一切の批判や反対論議を禁止した緊急処置9号が解除され、民主化への熱望が高まっていた。

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新学期に入ると、学生たちのデモが活発になり、80年5月15日には、ソウル駅から南大門(ナムデムン)に至るソウルの中心部の道路が、学生を中心にした民主化を求めるデモで埋め尽くされた。いわゆる「ソウルの春」である。

しかし、民主化熱が高まる一方で、朴大統領射殺当時国軍保安司令官であった全斗煥(チョン・ドゥファン)は、79年12月12日、軍内部のクーデターを起こし、実質的に権力を掌握していた。

そして、全斗煥を中心とするいわゆる新軍部勢力は、民主化運動の大々的な弾圧に乗り出す。

80年5月17日、非常戒厳令の全国拡大を決め、政治活動の中止、大学の休校などを発表するとともに、民主化運動のリーダーであった後の大統領・金大中(キム・デジュン)らを内乱陰謀罪などで逮捕した。翌18日には、精鋭の空挺部隊を金大中の地元である光州に派遣し、無差別の弾圧を繰り返した。

その圧倒的な武力に対し、多くの光州市民は、最初はおびえていたが、親族や仲間が命を失い、重傷を負う中で、怒りを抑え切れなくなっていた。

そして、軍の武器庫を襲撃し、武装し、市民軍を組織するようになった。

それに対し、新軍部勢力はこれを好機と捉え、市民軍を共産勢力に扇動された暴徒に仕立て上げ、自らの武力行使を正当化しようとした。
政治とは関係のない、ごく普通の市民が、怒りと悲しみの中で武器を持って立ち上がり、非業の最期を遂げるまでを、2008年に日本でも公開された韓国映画『光州5・18』では、克明に描いている。

映画『華麗なる休暇』韓国ポスター

この映画はその前年の夏韓国で、『華麗なる休暇』というタイトルで公開され、かなり話題になった。韓国でこのように、光州事件の真相が語られるようになったのは、そう遠い過去のことではない。

文・写真=大島 裕史

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