釜山(プサン)の東莱邑城歴史館の入り口には、周辺の施設のパンフレットが置かれていた。その中で、「禹長春(ウ・ジャンチュン)記念館」の文字が、私の目に飛び込んできた。
植物学者である禹長春については、私は以前から気になっていた。そのきっかけになったのが、1991年に放送された、NHKスペシャル「わが祖国 ある日本人・禹長春」という番組であった。
禹長春の生涯は波乱万丈であった。父親の禹範善(ウ・ボムソン)は、日本人が指導する訓練隊という部隊の一員として、1895年、高宗(コジョン)の王妃・明成皇后(ミョンソンファンフ)、いわゆる閔妃(ミンビ)殺害に加担したため、朝鮮では追われる身となり、日本に亡命した。
そこで日本人の酒井ナカと結婚し禹長春が生まれるが、長春が5歳の時、朝鮮から来た刺客によって父親は殺害される。
父親を亡くし貧困に苦しみながらも学問に励んだ禹長春は、東京帝国大学農学部農学実科を卒業して、農林省の試験場で研究を続けた後、タキイ種苗でも研究に没頭した。研究の成果の中でも、「種の合成」については、世界的に高く評価されていた。
1945年、韓国は解放を迎えたが、食糧事情は厳しく、キムチに欠かせない白菜や大根の種も、日本からの輸入に頼っていた。
こうした食糧問題を解決するには、禹長春の力が必要だと「禹長春博士還国運動」が起き、朝鮮戦争直前の1950年3月、禹長春はその声に応え、妻子を日本に残して渡韓する。
禹長春を迎えるに当たり韓国側は、かつて日本人が経営した後に放置されていた釜山・東莱の果樹園を整地し、農業試験場にし、禹長春もそこに暮らした。
今はすっかり住宅地になっているが、記念館があるのは、かつて農業試験場があった所だ。明倫洞の駅から東莱邑城とは反対側に行くと、記念館がある。
禹長春は、白菜、大根の試験栽培に成功しただけでなく、済州島(チェジュド)をみかんの、江原道(カンウォンド)をジャガイモも一大産地にするのに貢献している。
今日でこそ経済的に発展した韓国だが、その歴史の半分近くは、いかに食べていくかの戦いであった。禹長春が多くの弟子を育てたことも含め、彼の韓国への貢献は、その意味でも計り知れないものがある。
その一方で、禹長春の韓国での生活には、試練もあった。
1953年、女手一つで育ててくれた母親が危篤になった。しかし、日本に行くことは許されなかった。李承晩(イ・スンマン)大統領は、禹長春が日本に行ったまま、戻らなくなることを恐れたからだ言われている。
禹長春の失意の気持ちを思い、韓国各地から香典が届いた。禹長春はそのお金で、地元の人が使うため、農業試験場に井戸を掘った。
禹長春は毎朝その井戸で顔を洗い、周りを掃き清めることを日課にしていた。現在でもその井戸は、記念館の前にある。「慈乳泉」と名付けられたその井戸に、禹長春の母親への熱い思いを感じた。
1959年8月、病に倒れ、死に直面した禹長春に韓国政府は、建国以来2人目となる文化勲章を贈った。その時禹長春は、「祖国は分かってくれた」と話したという。
その言葉に、父親の最期も含め、彼が背負い続けてきた祖国に対する思いが込められているのではないだろうか。
日本と韓国の関係は、「親」と「反」もしくは「嫌」という極端な感情で語られることが多い。しかし実際は、そうした単純な言葉では表現できない奥深いものがある。日本から最も近い外国の都市である釜山で、そのことをより強く感じる。
文・写真=大島 裕史
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