国立扶余博物館の近くに、定林寺(チョンニムサ)址がある。
定林寺址は、市外バスターミナルからも近く、訪ねやすい。しかも扶余に遷都するとともに王宮から近く建てられており、重要な寺院であったことが分かる。
聖王が仏教に力を入れていたこともあり、扶余の都は至る所に寺院があったようだ。
しかし私が初めて扶余を訪れた1990年代初め、扶余の中心部で公開されている寺院址は定林寺だけだった。といっても、五重の石塔と石仏が野ざらしになっているだけであった。
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石仏は高麗時代の作品で、丸い顔に帽子を被るという、ユニークな座像である。私が2000年に訪れた時、石仏を納め安置する祠が建てられており、今はその中にある。
一方石塔の方は、百済の石を加工する技術の高さを示す遺物である。唐・新羅連合軍が扶余を陥落させた時、唐の将軍・蘇定方は、戦勝を記念する文字をこの石塔に刻んだという。私も探してみたが、文字が消えかかっており、分からなかった。
それにしても原っぱに石塔と石仏が置かれているだけの定林寺址は、滅ぼされた都の寂寥感があったが、近年大きく変わった。
境内には石仏の祠の他にも、3年前にここからの出土品や百済仏教の歴史を展示した博物館ができた。ここでも発掘作業が進行中で、今後も新たな発見があるかもしれない。
定林寺址では、蓮の花をかたどった瓦が目につく。この瓦、私にはかなり馴染みが深い。
私は小学5年生から中学2年生の夏まで、滋賀県大津市にいた。その時通っていた中学は大津京址の近くにあり、校章が、この蓮の花だった。
学校の近くには大津京址の他にも、古墳が多かった。校章も出土した瓦を基にデザインされている。そのため蓮の瓦を見ると、その校章が頭に浮かぶ。
再び市外バスターミナルのある幹線道路に出る。この幹線道路の北側のロータリーには、扶余の都を築いた聖王の銅像がある。
そして南側には唐・新羅連合軍に猛然と立ち向かい、壮烈な戦死をした階伯(ケベク)将軍の銅像がある。階伯将軍の銅像から東に向かえば国立扶余博物館があり、南に向かうと韓国最古の人工池である宮南池(クンナムジ)がある。
変わったと言えば、この宮南池もそうだ。新羅の都・慶州(キョンジュ)の雁鴨池(アナプチ)のモデルになったとされる宮南池であるが、しっかり整備され観光地となっている雁鴨池と比べると、宮南池は柳の木に囲まれた池の中央に東屋が立っているだけで、寂しさそのものだった。
しかし、2009年に行った時に驚いのは、池の周りの湿地には蓮が生い茂り、敷地一帯は「薯童(ソドン)公園」として整備されていることだった。
この池を作ったのは、子供の頃薯童と呼ばれていた武王(ムワン)だった。韓国歴史ドラマ『薯童謠』の影響もあり、宮南池は観光バスも停車する人気スポットになっている。日本の大河ドラマもそうだが、ドラマの影響は、やはりすごい。
文・写真=大島 裕史
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