【深発見25】日本の飛鳥寺の原型が韓国にあった!!…王興寺ワンフンサ

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今のソウルを追われた百済は、475年、今の公州(コンジュ)に都を移し、さらに538年には最後の都となる、今の扶余(プヨ)に都を移した。

今日扶余は、韓国を代表する観光地でありながら、近くに高速道路がつながっておらず、かなり細い道を通っていかなければならない。ただその分、滅んだ都の寂しさや、素朴さを感じることができる。

その扶余でも近年、歴史を書き換える大発見があった。

街の中心を流れる錦江(クムガン)を挟んで、扶余の王宮の後苑であり、防塁でもある扶蘇山(プソサン)という海抜106メートルの小高い丘の対岸では、以前から「王興」と書かれた瓦が見つかっていた。

発掘調査の結果、そこが王興寺(ワンフンサ)という寺院の址があることが判明し、2007年には、王興寺の五重塔があった場所から舎利容器が見つかった。そこに書かれている文字から、寺の創建が577年であることが分かった。

実はこの年、仏像や寺を作る技師が日本に来ている。その10数年後、蘇我馬子は日本最古の本格的寺院である飛鳥寺を創建している。

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飛鳥寺は五重塔を3つの金堂が囲むという特殊な伽藍様式で知られるが、そのモデルは、平壌(ピョンヤン)の清岩里廃寺(チョンアムリペサ)と考えられていた。

王興寺址

しかし王興寺も飛鳥寺と似たような伽藍配置であることが、発掘調査で分かってきた。しかもこの2つの寺は出土品もよく似ている。すなわち王興寺の発掘は、日本の寺院の成り立ちに関する定説を覆す可能性があるわけだ。

日本に仏教伝えたのは、日本書紀では聖明王と書かれている百済の聖王(ソンワン)である。扶余の都を築いたのも聖王である。となれば王興寺は、日本の仏教の源流の中の源流ということになる。

文・写真/大島 裕史

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