【史実検証】朝鮮王朝でもっとも外交が巧みだった王は誰?

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朝鮮王朝の国王は27人いたが、彼らは絶対の権力者として、すべての統治の責任を負っていた。わかりやすく言えば、王朝の存亡は国王にかかっていた、と言っても過言ではなかった。

特に、朝鮮王朝は強力な中国大陸の支配者との関係に苦慮した。この点で、外交が巧みでないと、王朝が滅ぶ危険性が高かった。

そんな外交で一番の成果をあげた国王は誰か。

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それは、間違いなく光海君(クァンヘグン)に違いない。

彼は、1608年に即位したが、当時は中国大陸で明と後金(後の清)が激しく領土争いをしていた。

明の国力が衰えていたのは確かで、明からの援軍要請も朝鮮王朝に来ていた。しかし、後金の軍事力は強大で、逆らうと国を危うくする恐れがあった。

そこで、光海君は両国の間で巧みな外交戦術を展開していく。

『華政』で光海君を演じたチャ・スンウォン

光海君の二股外交

まず、明からの援軍要請をのらりくらりとかわしながら、最後はわずかな援軍だけを送った。そのうえで、後金に使者を送り、朝鮮王朝の立場を詳しく説明している。

つまり、明と後金のどちらが勝ち残っても朝鮮王朝が無事であるようにふるまったのだ。これは正解だった。

こうして、光海君の二股外交は成功した。実際、後金が明に勝ったあとも朝鮮王朝は安泰だったのだ。

しかし、1623年に光海君はクーデターで追放されてしまった。次の王になった16代王・仁祖(インジョ)は後金を馬鹿にして、相手を怒らせてしまった。そして、後金は国名を清に変えてから侵攻してきて、朝鮮王朝は大敗を喫した。

1637年1月、仁祖は清の皇帝の前で土下座して許してもらうという屈辱を受けた。完全な外交の失敗だった。

仁祖の悪政は朝鮮王朝を存亡の危機に陥らせた。あのまま光海君が王位に就いていれば、清に土下座して謝罪する必要もなかったのに……。

このように、光海君と仁祖の政治能力の違いは、時代劇の『華政(ファジョン)』でも描かれていた。このドラマを見ていたら、光海君の優秀さがよくわかったが、それは歴史的にも事実であった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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