仁川(インチョン)の中華街の坂道を上り切り、再び中国風の門をくぐると、自由(チャユ)公園がある。この公園は、1888年にロシア人が設計した韓国最初の西洋式庭園で、元は万国(マングッ)公園と言った。
公園からは、仁川の港が見える。仁川が開港したのは、1883年のことである。それまで仁川は、済物浦(チェムルポ)という小さな漁村に過ぎなかった。
19世紀後半、欧米列強の東アジア進出が活発になる中で、仁川沖の江華(カンファ)島など朝鮮半島にも、欧米の艦船が通商を求め示威活動を行うようになった。
当時朝鮮王朝の実権を握っていた大院君(テウォングン)は、「鎖国攘夷」を徹底して推し進め、それらを退けてきた。
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しかし1875年、日本の軍艦・雲揚号が江華島沖に出現すると、大規模な武力衝突が起き、江華島の南にあり、今日では仁川国際空港のある永宗(ヨンジョン)島も攻撃された。
このいわゆる江華島事件をきっかけに日朝修交条規が結ばれ、昔から開かれていた釜山(プサン)以外に、2つの港を開くことが決まった。この2つの港が、後に仁川と元山(ウォンサン)になることが決定した。
これと同じような条約を朝鮮王朝は、アメリカ、イギリス、ドイツなどの欧米列強とも次々と結んでいき、朝鮮にも、外国勢力が進出するようになった。彼らがとりわけ重視したのが、首都に近い港町である仁川であった。
開化期の朝鮮で、仁川に多くの外国人が集まっていたことを物語る建物が、自由公園の中にある。
公園の斜面に沿って建っているこの建物は、公園から見ると1階建てに見え、さほど大きくないので見過ごしてしまいそうになる。しかし実際は、2階建てになっているこの建物は、「済物浦倶楽部」という。
1883年に日本と朝鮮国仁川租界条約が結ばれたのを皮切りに、84年に清国と、そしてその後は欧米列強各国と租界条約が結ばれた。すなわち自由公園周辺は、外国勢力が管理する租界になっていたわけだ。
1901年、租界に暮らす外国人の社交場として建てられたのが済物浦倶楽部である。この建物は、日本の植民地支配によって1913年に租界が廃止されると、日本の在郷軍人会が使用したり、日本人の婦人会が使用したりした。
解放後は、米軍の将校クラブ、仁川市の市議会、教育庁、博物館などとして利用された後、2007年6月に再び済物浦倶楽部として一般に公開されている。
一歩踏み入れると、ミシミシと音がする、黒光りする木目の床。白を基調とした壁に、アンティークな照明。ここには確かに、20世紀初めの雰囲気が漂っている。
文・写真=大島 裕史
大島 裕史 プロフィール
1961年東京都生まれ。明治大学政治経済学部卒業。出版社勤務を経て、1993年~1994年、ソウルの延世大学韓国語学堂に留学。同校全課程修了後、日本に帰国し、文筆業に。『日韓キックオフ伝説』(実業之日本社、のちに集英社文庫)で1996年度ミズノスポーツライター賞受賞。その他の著書に、『2002年韓国への旅』(NHK出版)、『誰かについしゃべりたくなる日韓なるほど雑学の本』(幻冬舎文庫)、『コリアンスポーツ「克日」戦争』(新潮社)など。
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