【王朝の悲劇】息子を餓死させた国王。英祖はなぜ世子に自決を迫ったのか

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ドラマ『イ・サン』や映画『王の運命』にも登場する朝鮮王朝の第21代王である英祖(ヨンジョ)には息子が2人いた。

まずは長男の孝章(ヒョジャン)。彼は1719年に生まれたが、病気によって9歳で早世した。

次に次男の荘献(チャンホン)が1735年に生まれた。

彼は生まれつき聡明だった。あまりに頭が良かったので、10歳のときにいくつかの政策を批判してしまい、当時の主流派閥だった老論派から警戒されてしまう。なにしろ、老論派は、19代王・粛宗(スクチョン)の時代から若き英祖の後ろ盾となっていた派閥なのである。本当は、荘献は老論派を怒らせてはいけないのに……。

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以後も荘献と老論派の相性は非常に悪かった。こうなると、荘献を牽制するために、老論派は荘献の素行の悪さを英祖に強調するようになった。

(写真=映画『王の運命』韓国ポスター)

英祖の後悔

しまいに、英祖によって何度も叱責を受けた荘献は、次第に偏屈になって親子の間に確執が生まれた。さらに、老論派は荘献を不利に陥れる工作を繰り返した。

しかも、荘献を攻撃したのが身内たちだった。どんな顔ぶれかというと、荘献の妻である恵嬪(ヘビン)・洪(ホン)氏の叔父だった洪麟漢(ホン・イナン)、荘献の妹の和緩(ファワン)、英祖の二番目の妻の貞純(チョンスン)王后といった人たちだった。

確かに、荘献にも問題があった。側室を殺害するということを犯していたし、妓生(キーセン)と遊び過ぎるという失敗をしていた。

激怒した英祖は、息子に自決を命じた。驚いた荘献は英祖に泣いて許しを請い続けた。しかし、無理だった。最後に、荘献は英祖によって米びつに閉じ込められてしまう。結局、米びつのフタが開けられたのは8日目のことで、荘献はすでに餓死していた。

実際に亡くなってから父親が後悔し、荘献は英祖から「思悼世子(サドセジャ)」という尊号を与えられた。「世子(セジャ)の死を追悼する」という意味だった。

このようにして、朝鮮王朝の悲劇と呼ばれた世子餓死事件は起こった。ドラマや映画でも、この事件は繰り返し題材になっている。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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