朝鮮王朝で「最強の大妃」と呼ばれた猛女は誰なのか

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果たして、朝鮮王朝では何歳から結婚が許されたのだろうか。当時の法律では、男子は14歳、女子は13歳から結婚することができた。

しかし、特例もあった。それは、世子嬪(セジャビン/王の後継者の妻)の場合であり、13歳未満で王室に嫁いできた女性も多かった。

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一番若い年齢で世子嬪になったのは、18代王・顕宗(ヒョンジョン)の正室だった明聖(ミョンソン)王后。なんと9 歳であった。

そして、明聖王后は17歳のときに夫の即位によって王妃となり、世継ぎとなる長男を19歳で出産。その長男が19代王・粛宗(スクチョン)として即位したのは1674年で、明聖王后は32歳だった。

息子への溺愛する明聖王后

大妃になった明聖王后は性格がとてもわがままになっていった。女性の立ち入りを禁止されている庁舎まで押しかけて閣議に口を出し、高官たちから厳しい抗議を受けたこともあった。

それでも明聖王后はひるまない。粛宗が張禧嬪(チャン・ヒビン)に熱を上げると、母の勘で「あの女を近づけてはいけない」と見なし、すぐに張禧嬪を宮中から追い出してしまった。

写真はイメージ(写真=SPORTS KOREA)

まさに「最強の大妃」であった。そして、明聖王后の息子への溺愛ぶりは宮中でも有名だった。それだけに、粛宗が原因不明の重病に陥ったとき、明聖王后は取り乱した。

巫女を呼んで祈祷をすると、その巫女から「大妃様の体内にわざわいがあり、それが王様の病の元になっています。わざわいを解くには、水でからだを清めることです」と指摘された。

巫女の言うとおり、明聖王后は何日も水浴びをしたが、季節は真冬だった。身が凍るような冷水は明聖王后を極端に衰弱させた。その果てに、彼女は1683年に41歳で亡くなった。

しかし、その死は無駄ではなかった。粛宗が奇跡的に回復したからである。いわば、明聖王后は息子の身代わりになったのだ。

息子を溺愛する母として、自ら犠牲になったのも本望であったかもしれない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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