韓国時代劇『宮廷女官 チャングムの誓い』で知られるチャングム。彼女は中宗(チュンジョン)の時代に生きた医女なのだが、彼女はどんな女性だったのか。
彼女の登場は偶然ではなく、中宗の時代でなければありえない必然性があった。医女という制度は、3代王・太宗(テジョン)の時代にその端を発するが、中宗は医女という仕事の重要性を深く理解し、その身分について改善を図るよう命じていたのだ。中宗と長今。2人は深い必然で結ばれる関係だった。
「朝鮮王朝実録」に登場する医女の長今(チャングム)は、謎の多い人物である。しかしその存在は、ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』で描かれたように、11代王・中宗(チュンジョン)と強い関わりがある。中宗は、医女の身分を深く理解し、その改善を命じていたからだ。
朝鮮王朝の王宮では、政治を議論する高官から、炊事を行なう女官まで多くの人が働いていた。中でも特に専門性が必要な仕事が医官である。
しかし、医女の立場は特殊だった。
儒教では、女性が男性に肌を見せる行為は大変な恥とされ、病を患おうとも医官の診察を拒む王族女性が多かった。そのことに頭を悩ませた3代王の太宗は、女性の医官(医女)の選抜を行なった。
しかし名門出身の女性は、他人の肌を見る仕事に就きたがらず、苦心した太宗は奴婢から医女を選抜した。
こうして、医女には低い身分の者が就くという風潮が生まれた。医女は必要以上に低く見られがちで、10代王・燕山君(ヨンサングン)の時代には、宴席で酌を強要されることもあったという。
こうした悪習を中宗は強く戒め、医女に酌をさせるなどの行為を一切禁止させた。中宗の医女への理解の深さ。「朝鮮王朝実録」における“医女・チャングム”の登場は、そうした背景も深く関係している。
チャングムの名は、「朝鮮王朝実録」に断片的に登場する。その名が初めて登場するのは1515年3月21日である。
このとき、中宗の正室が王子(後の12代王・仁宗〔インジョン〕)を産むと、すぐに亡くなってしまった。その際、長今は、産後に王妃の衣装を替えないという失敗をおかした。王族の治療にあたる以上、些細なミスでも大きな責任を負わねばならない。しかし長今は、その後も医女として働き続けた。おそらく、王子の出産を祝って恩赦を受けたのかもしれない。
それ以降も、長今の名は1548年までに10カ所ほど登場する。
また、名前の前に「大」を付け、「大長今」と記されたこともあった。最大級の賛辞であり、中宗がどれだけチャングムを信頼していたのかが伝わる。
しかし、「朝鮮王朝実録」にはチャングムの肝心な人物像については何も記されていない。
時代劇の巨匠のイ・ビョンフン監督は、男尊女卑が色濃い朝鮮王朝で活躍したチャングムに強い魅力を感じた。
やがて、イ・ビョンフン監督は出生も人物像も謎に包まれているチャングムを主役にしたドラマを作りたいと思うようになった。
こうして誕生したのが『宮廷女官 チャングムの誓い』である。
チャングムを現代に蘇らせたイ・ビョンフン監督は、彼女の生い立ちから性格まで大胆な想像を加えた。
それが物語前半で繰り広げられる水刺間(スラッカン)の女官としての料理人の時代だ。もちろんチャングムが水刺間で働いたという史実はない。
朝鮮王朝では日本の「大奥」に該当する部署を「内命婦(ネミョンブ)」といい、洗濯をする部署から食事の調理をする部署まで、組織が細かく分かれていた。
各部署で仕事をする女官を内人(ネイン)と呼び、内人を統括する女官を尚宮(サングン)と言った。イ・ビョンフン監督は、「医女のチャングムがもし内命婦の出身だったら……」という斬新な仮定で解釈し、興味深い宮女たちの生活も含めながら、チャングムの人物像を豊かに描き出していた。
ほぼすべてが謎に包まれているチャングム。そんな彼女を主人公にあれだけの傑作が生まれたのは本当にすごいことだと思う。
構成=大地 康
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